伯爵と妖精 駆け落ちは月夜を待って 著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)クリスマスの正餐《ディナー》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|善良な妖精《シーリーコート》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/_mistletoe_001.jpg)入る] [#挿絵(img/_mistletoe_002.jpg)入る] [#ここから2字下げ]   目次  銀月夜のフェアリーテイル  雪水晶のフェアリーテイル  恋占いをお望みどおり  駆け落ちは月夜を待って  きみにとどく魔法  あとがき [#ここで字下げ終わり] [#挿絵(img/mistletoe_004.jpg)入る] [#挿絵(img/mistletoe_005.jpg)入る] [#挿絵(img/mistletoe_007.jpg)入る] [#改ページ]     銀月夜のフェアリーテイル [#挿絵(img/mistletoe_009.jpg)入る] [#改ページ] �妖精に注意。フェアリーリングを見つけても、むやみに中へ入らないこと�  大きくそう書かれた紙を、町はずれの小道に沿った垣根《かきね》に貼《は》りつけ、リディアは眺めた。 「ま、こんなもんでしょ」  くすくす笑いながら、人が通り過ぎていく。  カールトン家の変わり者娘が、とうとうおかしくなった。そんなひそひそ話が耳に届いたが、彼女は我関《われかん》せずに張り紙を検分《けんぶん》する。 �妖精に関するご相談は、モミの木通り五番地、リディア・カールトンまで� 「がんばらなきゃ。妖精が悪さしたら、解決できるのはこの町ではあたしだけなんだから」  リディアは気合いを入れるためにつぶやく。  もっとも、彼女がこの仕事を本格的に始めることを思いついたのはひと月前だ。これまでのところ町の住人は、身の回りに起こる不都合を、妖精の仕業《しわざ》だと気づいていないことがほとんどで、たまにリディアが指摘しても、鼻で笑うだけだった。 「で、トラブルを解決してやったら、ますます変人呼ばわりされるわけだ」  その声は、木の上から聞こえた。  枝にちょこんと腰かけているのは、毛のふさふさした灰色の猫だ。と、それはぴょんと飛びおり、二本足で地面に立った。おまけに、しゃれたタイを結んでいる。 「リディア、あんたの母親が同じことを仕事にしてたからって、昔の話だし、土地|柄《がら》も違うぜ。昔っから妖精と共存してきた僻地《へきち》ならともかく、こんな新興の町じゃな」  言葉を話し自在に姿を消すそれは、もちろん猫ではなく妖精だ。リディアよりずっと長く生きているはずだが、彼女の幼なじみではあった。  そんな彼の言うように、十九世紀も半ばとなった現在、英国では各地に鉄道が敷かれ、工場ができ、人々の生活が様変わりしている。同時に、妖精なんておとぎ話だと、その存在が信じられなくなりつつあるのが現実だ。 「でもこの町にだって、妖精はたくさんいるじゃないの。だからニコ、じゃましないでね」  今日中に、張り紙を町のあちこちに貼っておくつもりだった。  なにしろもう、夏至《げし》が近い。妖精たちのいたずらも活発化することだろう。  母が生前そうだったように、妖精博士《フェアリードクター》として認められるためには、この時期に宣伝しなくては意味がない。  まだ十六歳の少女だが、リディアは、妖精に関しては誰よりも詳しいつもりだった。子供のころから妖精が見え、自然と詳しくなってしまった。  そして彼女には、人間よりも妖精の知り合いの方が多い。自分の能力を生かす仕事は、これしかないと思っている。  と、背後《はいご》でビリビリと音がした。あわてて振り返ったリディアの視線の先で、子供たちが張り紙を破っている。 「何するの! やめなさい!」 「わあっ、リディアが怒ったぞ! 仕返しされるぞ、へそから毛が生えるぞ!」  さっと子供たちは逃げていく。逃げながらも、毛が生えるとはやし立て続けていた。 「悪い子は妖精につねってもらうわよ!」  こんなことを言ってしまうから、いたずらっ子の親たちがリディアに眉《まゆ》をひそめるのだ。 「本当に、毛が生やせるの?」 「ええっ、ふさふさにしてあげましょうか?」  またいたずら小僧かと、苛立《いらだ》ちながら振り返ったが、困惑《こんわく》を浮かべつつそこに突っ立っているのは、見慣れない青年だった。  この町の住人ではない、黒っぽいフロックコートに身を包み、革のカバンと楽器のケースを両手に提《さ》げている。使いこんだ帽子や言葉遣いは、標準的な中流階級《ミドルクラス》の紳士《しんし》に見えた。  身を屈《かが》め、彼は破り捨てられた張り紙を拾い上げる。 「リディア・カールトンって君のこと?」 「……そうよ。ちょっとどいてくれません? 張り紙を直したいの」  破られたくらいで、めげてはいられない。こんなこともあろうかと、何枚も用意してあるのだ。 「�妖精に注意�ってどういう意味なんだ?」 「そのままの意味よ。もし妖精の声が聞こえても、知らん振りをするのよ。でないとひどい目にあうわ」 「本当に妖精がいるっていうのかい?」 「あの、ひとつ確認したいんですけど、あたしのことバカにしたくて訊《き》いてるの?」 「えっ、まさか。不思議な張り紙だなと思っただけで」  どうやら他意はなさそうだった。 「ならいいわ」  リディアは気を取り直し、張り紙を地面に広げ刷毛《はけ》で糊付《のりづ》けをはじめた。 「あなたイングランドから来たのでしょう? このスコットランドではね、そこら中に妖精がいるの。ロンドンのネズミくらいに当たり前のものよ。でも、たいていの人は妖精の姿を見ることができないから、こういう張り紙も理解されないのよ」 「へえ、そうなんだ」 「無理に信じなくてもいいのよ」  素直に聞いてくれる人にまで、ひねくれた返事をしてしまう。母のように、寛大《かんだい》な心で人の役に立てるようになるには、まだまだ修行《しゅぎょう》が足りないようだ。  まっすぐに貼り付けられず、直すのに必死だったリディアは、青年はとっくに立ち去ったと思っていた。が、できあがって一息つけば 「終わった?」とまた声がかかる。 「な、何してるの?」 「え? 君を待ってたんじゃないか」  当然だという様子だった。 「……まだ何かご用?」 「バレット氏の屋敷を知ってるかい?」 「誰でも知ってるわ。大通りで訊くのね」  リディアが歩き出すと、青年もついてきた。 「君は案内してくれないの?」 「やめたほうがいいわよ。あたしと一緒に大通りを歩いたら、変わり者の噂《うわさ》が立つもの」 「べつにいいよ。三日間しかこの町にいられないからね」  偽善者《ぎぜんしゃ》、という種類の人間とも少し違うようだった。かわいそうな子という理由でリディアにやさしくする人は、「あなたは悪くない、変わり者なんかじゃない」と言うのだ。  しかし彼は、リディアが変わり者でも気にしないだけらしい。めずらしい人だと思った。 「……いいわ。どうせ近くを通るもの」 「助かるよ」と、屈託《くったく》のない笑顔を見せた。  青年は、イアン・レイノルズと名乗った。エジンバラに向かう途中、この町に立ち寄ったヴァイオリニストだという。  町のはずれで馬車が溝《みぞ》にはまってしまい、すぐそこだというので歩いてきたのだとか。  大地主《ジェントリ》であるパレット氏に招かれ、明日の夜、演奏会を開くとも言った。 「有名人なの?」  というリディアの不躾《ぶしつけ》な質問にも、イアンは笑って答えた。 「まだ新人だよ。そうだ、君も聴きにおいで。ボーイフレンドでも誘って」 「嫌味《いやみ》?」  思わず反応してしまう。しかし彼にそんなつもりはないのはわかってきていた。 「ううん、えっと、ごめんなさい。この性格って、たぶん防衛本能ね。つまり……わかるでしょ? あたしと親しくしたいなんて人はいないってこと」  つい、リディアは愚痴《ぐち》をこぼしていた。  たぶんこの人が、まじめな雰囲気《ふんいき》を持っているからだろう。 「どうして? 妖精が見えるってだけだろ?」 「でも、妖精と会話をする娘なんて、気味が悪いでしょ? それにあたしは、妖精の取り換え子だっていわれてるわ」 「取り換え子? そんな証拠《しょうこ》でもあるの?」 「あたしの母、もう亡くなったけど、評判の美人だったのよ。完璧《かんぺき》な金髪で、肌も雪のように白かった。でもあたしはぜんぜん似てないの。髪はこんな赤茶色だし、とりたてて魅力もないし」 「そうかな。とても印象的な目をしてるじゃないか。金色がかった緑なんだね」  不意に瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込まれ、ちょっとびっくりする。 「無理しなくていいわ」  そして、また言ってしまった。 「そんなつもりじゃないよ」  もうしわけない気持ちを、どうしていいかわからず、リディアは混乱するばかりだ。 「ええ、……そうね。とにかくっ、あたしのことはほめなくていいってこと」  これ以上、彼を困らせてはいけない。リディアは立ち止まる。 「向こうの赤い屋根が、パレット氏の屋敷よ」  頷《うなず》くと、イアンは上着の内ポケットに手を入れ、紙切れを取り出した。 「演奏会のチケットだ。ぜひ聴きに来て」  正直、リディアは戸惑《とまど》う。屈折《くっせつ》した少女だと、じゅうぶんわかっただろうに、それでも誘うのだろうか。 「そんなに、お客さんが集まりそうにないの?」  すると、おかしそうに彼は吹きだした。 「そうだね。ひとりでも来てくれれば、演奏会は開けるからね。たのむから来てよ。君のこと、ほめないように気をつけるから」  手を振って立ち去る彼を見送り、変な人、とつぶやいていた。 「なんだ、有名人なんじゃない」  家へ帰ったリディアは、テーブルに広げた新聞にイアンの名前を見つけ、思わずつぶやいていた。  ロンドンで話題のヴァイオリニスト、『銀月夜の演奏会』を開催とある。 「お客さんがひとりも来ないなんてあり得ないわね」  だったら、自分が演奏を聴きに行かなくても大丈夫だ。そう思いながらもリディアは、ひっくり返したクローゼットの中身を、ベッドの上に広げたり、鏡の前で合わせてみたりをくり返していた。 「リディア。そんなことより遊びに行こうぜ。野バラの妖精族が舞踏会《ぶとうかい》を開くってさ」 「やあよ、あの妖精族って気難しいもの。それよりニコ、水色とピンクどっちがいい?」 「あのイングランド人が気に入ったのか?」 「バカなこと言わないで」 「でも、やけに浮かれてるじゃないか」 「べつに浮かれてなんか……」  考えてみれば、チケットが余っていただけだろう。道案内のお礼ぐらいのつもりなのだ。  なのにまるで、イアンに会いに行くかのように浮き足立っていたことに気づき、リディアは急にバカバカしくなった。ドレスを放り出す。  鏡の中には、いつもの仏頂面《ぶっちょうづら》の自分がいた。金緑の瞳がこちらを見つめている。これも両親とは似ていない。妖精の血のせいだとか、魔女のようだと噂される一因だとは知っているが、父も母も美しいと言ってくれた。  唯一《ゆいいつ》の家族である父は、ロンドンで職に就いていて、めったに家へは帰ってこない。  父には妖精は見えないが、母を理解して支えてきた。変わり者どうしと言われていたが、リディアには理想の夫婦で、自分にもいつか、父のような人が現れればいいと思ってきた。  けれども十六年間生きてきて、そんな人に出会ったことがない。年頃の男性も、めったなことでリディアに声をかけたりしない。だから自分も、なかなか人を好きになれない。  たぶん母は、幸運だったのだ。自分には、そんな運はありそうもないとこのごろ思う。  両親以外では、ほめてくれたのはイアンがはじめてだったから、ちょっと心が乱れたのだろうか。  日が暮れるとともに、銀色の月が空に昇った。リディアは窓辺で、妖精たちがざわめき出す声を聞いていた。  野バラの妖精族が開く舞踏会に集まっていくのか、小さな姿がニワトコの茂《しげ》みから湧《わ》き出て、列になって庭を横切る。  麝香《じゃこう》に似た強い香りを持つニワトコの木は、魔女の木ともいわれ不吉《ふきつ》な言い伝えを持つが、要は謎《なぞ》めいた力があるということか、妖精たちが好む木だ。だからか父がたくさん植えた。おかげでここは完全に、妖精のたまり場だ。 (みんな聞いたか? 野バラの女王さまがステキなものを手に入れたってさ) (ああ、ヴァイオリン弾《ひ》きだそうだ。若くてとびきりの宝石みたいな魂《たましい》だって)  その声を耳にしたリディアは、とっさに窓を開け、身を乗り出していた。 「何ですって? 本当なの?」 (わあっ、意地悪リディアだ!)  茶色の妖精たちは、バラバラになって逃げ出した。  べつにあたしが意地悪なんじゃないわ、とリディアは少々腹が立つ。ブラウニーときたらいたずら好きで、子供を隠したりお酒を酸《す》っぱくしたりするから注意しているのだ。  悪さがすぎると、妖精だって人間と共存しにくくなるのだから。  妖精博士《フェアリードクター》は、妖精のいたずらに困らされた人を助けるだけが仕事ではない。妖精についての理解を人々に深め、両者が共存するための役割をになっていたと母に聞かされた。  機関車が走るようになったこの時世に、時代遅れかもしれないが、目に見えなくても忘れかけられていても、妖精たちはたしかにいるのだから。リディアの才能も、多少は需要《じゅよう》があるはずだ。  たぶん昔と違って、ますます人には胡散臭《うさんくさ》く見られるのだろうが、母から受け継いだ能力は、彼女にとって誇りだった。  だからこそ、この能力を恥じたり隠したりせず、役立てたいと思っている。 「ニコ、今の聞いたでしょう?」  言葉をしゃべる猫は、マントルピースの上に寝そべっていた。頬杖《ほおづえ》をついて後ろ足を交差させ、大あくびをする。きっと中にはくたびれたオヤジが入っているに違いないというポーズだ。 「ふん、連中は美しいものが好きさ。美しいものを生み出す人間の魂もな」 「舞踏会に行くわよ」 「おいおい、あのイングランド人かどうかわからないじゃないか」 「ほかに、女王がほしがるようなヴァイオリン弾きがこの町にいる? 酒場《パブ》に現れる芸人なんて、女の金切り声みたいな演奏ばかりよ」 「だとしてもさ、野バラの女王が、一度手に入れたお宝を手放すかね」 「とにかく、野バラの妖精族のところへ案内してほしいの」  しかたないなというふうに、のっそり起きあがったニコは、「風丘の円形土砦《ラース》だ」と、あごをしゃくってついてくるよう促《うなが》した。  月光が丘を青白く染めている。リディアは町を離れ、二本足でてくてく歩く妖精猫を追って、草原をしばらく歩いた。  やがて遠くに、淡い光がうごめいているのが見えた。妖精が群《むら》がっているのだ。その中央に、人間らしい姿がある。  ニコを追い越し、リディアは駆《か》け出した。  トネリコの枝を手に、光の群れに飛び込んでいく。枝を振り回すと、羽虫《はむし》のようにわっと妖精たちは散っていった。  月光だけが注ぐ草むらに、残されていたのはヴァイオリンを抱きかかえたまま眠り込んでいるイアンだった。 「ねえちょっと、しっかりして!」  リディアの呼びかけに、彼はゆっくりと目をあける。危機感のまるでない笑みを浮かべ、身体《からだ》を起こす。 「……やあ、君か。……なんだか、不思議な夢を見ていたよ。そう、妖精たちに囲まれてたような……」 「夢じゃないわよ」 「え?……そういえば、ここはどこ? きれいな月夜なんで、ちょっと町はずれを散歩してたはずなんだけど」 「フェアリーリングに入ったでしょう」 「ああ、地面がまるく光ってたっけ。何だろうと思って。あれがフェアリーリングなんだ。はじめて見たよ」  リディアの張り紙は、彼にも役に立っていなかったようだ。 「じゃあ僕は、妖精にさらわれそうになったってこと?」 「そうよ」 「それで、君が助けてくれたんだね」 「まだ妖精の国に連れ去られる前でよかったけど……。あっ、でも、何かなくなったものはない?」 「いや、べつに。ヴァイオリンも両手もある。他は盗まれてもどうってことないよ。そうだ、お礼に一曲弾かせて」  危険な目にあったばかりだというのに、のんびりした人だった。でもきっと彼は、妖精の国にとらわれても、ヴァイオリンを弾いていられさえすれば満足しているのだろう。  にっこり笑って立ち上がり、楽器をかまえた彼は美しかった。草原にすっくと立って、月光を集めている。すらりとした姿を際立《きわだ》たせる光に包まれ、優雅に弓をおろす。  夢のような音色《ねいろ》が立ちあがった。 『銀月夜』だ、とリディアは思う。  はじめて聴く曲だったが、演奏会の名前《テーマ》にもなっている『銀月夜』が、この曲なのだとわかるほど、月夜にとけ込む旋律《せんりつ》だった。  音色が銀色に輝くようだと、草の上に座り込んだまま、目を閉じてリディアは耳を傾けていた。  しかし急に音色が途切《とぎ》れた。演奏をやめた彼は、不思議そうに首をひねる。 「どうしたの?」 「違うんだ……。こうじゃない、いつもの音が出せない」 「えっ、本当? じゅうぶんステキだったと思うけど」 「でも、何か足りないんだ。何だろう、自分でもわからないんだけど」 「そ、それだわ!」  リディアは勢いよく立ちあがった。 「それって?」 「とにかく、あなたは何か盗まれたのよ」 「じゃあ僕は、もうヴァイオリンが弾けなくなってしまうのか」  肩を落としたイアンの様子は、見るに忍びなかった。助けに来たつもりだったけれど、ヴァイオリンが弾けないなら、助けられなかったも同然なのだ。  演奏会は、町の人たちも楽しみにしている。それだけでなく、きっとエジンバラでもロンドンでも、もうイアンが演奏をしないと知ったら、悲しむ人がたくさんいるだろう。 「……大丈夫よ、ミスター。あたしが、妖精から取り戻してくる」 「そんなことができるのかい?」  そのためには、野バラの妖精女王と取り引きしなければならない。リディアには重い役目だった。多少は妖精との駆け引きのしかたを知っていても、本物のフェアリードクターにはほど遠い。昔の妖精博士《フェアリードクター》は、妖精たちからも一目《いちもく》置かれていたから、彼らと取り引きができたのだ。  けれどリディアが迷ったのは、少しのあいだだけだった。  困っている人を助けられないなら、リディアは、妖精が見えるだけの変わり者だ。母の仕事を継ぐことなどできない。 「やってみるわ」 「でもリディア、どうしてそんなに、親切にしてくれるの? 僕みたいな通りすがりの旅人のために」  イアンに見つめられ、なんだか胸がどきどきした。  それは……。  金緑の瞳をほめてくれたから? リディアのことを気味悪がったりしないから? 「あたし、母と同じ仕事をしたいの。あなたが最初の依頼人よ」  これ以上問いつめられたら、会ったばかりの男の人に、はしたないことを口走ってしまいそうだった。リディアはそのまま駆け出していた。  さっき妖精たちが流れていった方向へ急ぐ。野バラの妖精族は、この先の円形土砦《ラース》でまだ舞踏会《ぶとうかい》を楽しんでいることだろう。  まるでひと気のない夜の円形土砦《ラース》は、風の音さえなく静かだった。けれどその領域へ一歩足を踏み入れたとたん、リディアは舞い踊る光の群れに囲まれた。  妖精の舞踏会だ。  あたり一面に、花が咲き乱れている。季節の違う草花が同時に咲いて丘を埋《う》め尽《つ》くす。  花びらの衣装をまとった妖精が、ニワトコの泡つぶのような花を手に、歌《うた》い踊る。  気がつけばリディアは、妖精たちと同じくらいの小さな身長になって、彼らの群れに紛《まぎ》れ込んでいるのだった。  踊ろう、踊ろうと妖精たちが誘いかける。光と強い香りに酔い、ここへ来た目的など忘れて踊り出したい気分になる。 「やめろよリディア」  気まぐれな二本足の猫は、イアンのそばでは姿を消していたが、いつのまにかまたリディアの目の前にいた。それもやたら巨大化して。というよりも、彼は大きさが変わっていないせいだろう。猫というよりバケモノだ。 「あんた、妖精と取り引きしたことなんてないじゃないか。いたずらをやめさせるまじないを知ってたって、いきなり女王と取り引きしようなんて無謀《むぼう》だよ」  けれどもニコの声が、ダンスの誘いからリディアを引き戻し、やる気にさせていた。 「やってみなきゃ、フェアリードクターにはなれないわ」  乱れ飛ぶ妖精をかきわけ、玉座《ぎょくざ》の女王を捜《さが》して進む。天鵞絨《ビロード》のように輝く苔《こけ》を集めた石の玉座に、深紅《しんく》の花びらをまとった女王がいた。  髪も肌も透《す》き通りそうに白く、薄いガラスでできているかのような一対《いっつい》の羽がある。 「女王さま、お願いがあって来ました」  リディアは、女王の前にひざまずいた。 (地上の娘よ。おまえの願いは、ヴァイオリン弾《ひ》きのことであろう。だが私は、手放すつもりはないぞ。至上《しじょう》の音楽を紡《つむ》ぎ出す魂《たましい》だ) 「女王さま、ただ返してくれとは言いません」  物と物を交換する、妖精はその申し出を断ることはできないはずだった。彼らは自分の手元にあるものより、新しいものを常にほしがる。習性というより本能のように。もちろん、より魅力的なものでなければ意味はない。  何と引き換えるべきかと、リディアは必死に知恵を絞《しぼ》った。  こんなとき母ならば、渡してしまってもこちらには支障《ししょう》のない、しかし妖精には魅力的に見えるものを、言葉|巧《たく》みに持ち出して、うまく立ち回ったことだろうが、リディアにはそんな高度な技は使えない。 (およし、リディア。あれを返さぬは、おまえのためでもあるぞ)  悩んでいると、女王はまた言った。 「……どうしてですか?」  軽やかに手をあげた女王のそばに、お付きの妖精が何かをかかえて舞い降りてきた。  ひとかかえもある大きな封筒《ふうとう》だった。とはいえリディアがもとの大きさだったなら、ふつうの封筒に見えただろう。 (ヴァイオリン弾きが落としたものだ) 「それが、すばらしい音楽を紡ぐ魂ですか?」 (そう。愛する者を想《おも》う心。魂を輝かせ、至高《しこう》の芸術を生み出す深い感情の源《みなもと》。ヴァイオリン弾きはこの、恋人からの手紙を、肌身離さず身につけ、遠く離れた恋人を想っていた。人はまこと、謎《なぞ》めいて美しいものを秘めていることよ。我《われ》ら妖精族にはないゆえに、興味深い)  恋人からの手紙?  リディアの心がざわめいた。  そんな大切なものをなくしたことさえ、イアンは忘れている。そして、恋人がいたことも、どんなふうにその人を想っていたのかも忘れ、彼の音楽に何が欠けてしまったのかもわからなくなった。 (リディア、ヴァイオリン弾きが気に入ったなら、この町に引き止めればよかろう。音楽を失ったあの男に、行くところはなかろうて)  あの人がいてくれれば、リディアの日常は大きく変わるだろう。もっともっと彼を知りたいし、好きになれるかもしれないと思う。  でも、そうしたら彼は、もうすばらしい音楽を奏《かな》でることができなくなってしまう。  魂が欠けたままの彼を引き止めても、リディアは永遠に、本当のイアンの姿を知ることができないのだ。  月光を引き寄せて弾く、本物の音色《ねいろ》を知らないまま、彼が好きだなどといえるだろうか。  リディアは女王に向かって首を横に振った。 「あたし、彼の音楽を聴きたいの。女王さま、恋に興味がおありなら、あたしの魂の、恋する心を差し上げます。だから彼の魂を返して」  言うと同時に、嵐のような風が起こった。  あたりの花や草を舞いあげ、木々を鳴らす。舞踏会どころではなくなった妖精たちは悲鳴をあげ、明るい月を雲が覆《おお》い隠した。  玉座から立ちあがった女王が、風に髪を逆立《さかだ》てながらリディアを見据《みす》える。 (あさはかな娘よ。交換を口にしてしまったな。しかたがない、応じよう。だがこれでおまえは、誰にも恋はできぬぞ)  イアンの手紙が風に舞いあげられ、遠くへ飛ばされていくのを追いかけようとしたが、妖精たちの発する光も消え失《う》せて、あたりは急に、完全な闇《やみ》に覆われた。 「バカだよリディア。会ったばかりの奴《やつ》のためにそこまでするのか」  ニコの声だけが、どこからか聞こえた。 「いいのよニコ、……どうせ、取り換え子を好きになる人なんていないもの。でもこれであたしは、人を好きになるのが幸せなことだってわかった気がする。最初で最後だけど」      *  イアン・レイノルズの演奏会は、月が昇る時刻に野外劇場で開かれた。  小さな町のことだから、こぢんまりとした会場ではあったが、客席はいっぱいだった。  片隅《かたすみ》の席で、リディアは演奏に耳を傾けていた。部屋に演奏会のチケットがあったから、なんとなく来てしまったのだ。  しかしリディアは、どうして自分がチケットを持っていたのかおぼえていなかった。  ゆうべは、気がつけば自室のベッドに横たわっていた。野バラの妖精族の舞踏会に出かけたはずだが、その先が思い出せない。  きっとはしゃぎ疲れて帰ってきたのだろう。  奏者の繊細《せんさい》な手元から紡ぎ出される音に、耳を傾けていれば、なぜか気持ちが波立った。  切《せつ》なくやさしい音楽が、心を撫《な》でていく。  人を好きになったことなんてないのに、ほんのりとやさしいこの音が、好きという感情に似ていると思うのはどうしてだろう。  けれどリディアは、気持ちをゆさぶるはずの演奏を受けとめきれていない、そんなもどかしさも感じていた。心の中がどこか、固く凍ってしまい、もっと深く感じ取りたいと思うのに、そこだけが震《ふる》えない、そんなふうだ。  気がつけば曲が終わり、劇場は拍手《はくしゅ》の渦《うず》に包まれていた。  花束を手にして、若い娘たちが舞台に駆《か》け寄る。リディアも、リボンを結んだバラを一本、手にしていることに気づく。『演奏会に行くなら持っていくもんだぜ』とニコに押しつけられたのを思い出した。 『感動したってしるしに渡すんだ』 『感動しなかったら?』 『踏んづけて放り出してくればいい』  そういうのがマナーなのかしら。ニコはリディアよりは物知りだが、人間ではないぶん、一般常識はあやしい。それでも、感動を伝えるために花をわたすのは間違っていないようだ。  ただ、わからない。自分は、感動したのだろうか。  リディアは喪失《そうしつ》感に包まれていた。この人の音楽をちゃんと聴《き》き取れないことが、悲しくてたまらなかった。どうしてそんなふうに感じるのかわからず、ただ自分がひねくれ者の取り換え子だから、素直に心動かされないのかもしれないと思う。  あたしが来るべき所じゃなかったんだわ。  次の曲のために、拍手が鳴りやもうとしていた。うつむいているリディアは、舞台のヴァイオリニストが彼女をじっと見ているのに、気づくはずもなかった。 「野バラの妖精女王に、次の曲を捧《ささ》げます」  ヴァイオリニストが口を開く。 「受け取ってくださるなら、リディア嬢の魂と引き換えてくださいますよう」  リディアははっと顔をあげた。  どういうこと? リディアってあたし?  驚いている間に、『銀月夜』の夢見るような旋律《せんりつ》が流れ出した。聴いたことがある。そう思うと同時に、彼女の中に、たった今まで忘れていたイアンの記憶が流れ込んできた。  瞳の色をほめられたこと。チケットをもらったこと、微笑《ほほえ》みかけられときめいたこと。フェアリーリングに入った彼を助けたこと。妖精女王と取り引きしたこと。  凍りついていたところに、音がしみ入り暖かくとろかす。気がつけば、溶けだしたしずくが涙になって、ひざの上のバラを濡《ぬ》らした。  ようやく、身体《からだ》中で感じ取っている。これが、本当に聴きたかったイアンの音楽だ。  奏でる方も聴く方も、心が欠けていては得られない音楽を、彼女は受けとめる。  客席の誰もが『銀月夜』に陶酔《とうすい》していた。  やがて割れんばかりの拍手に包まれ、彼は満足げな微笑みを浮かべた。  しかしリディアは、急に心配になってきていた。女王に曲を捧げるなんて、とんでもない取り引きだ。どうして彼がそんなことを。  はっと思い当たれば、彼女は急いで会場を出る。植え込みの奥で寝そべっているニコを見つけ駆け寄った。 「どういうことなの? ニコ。どうして彼が、野バラの女王と取り引きするの?」 「どうすればリディアを助けられるのかって訊《き》くからさ」 [#挿絵(img/mistletoe_033.jpg)入る] 「ニコが吹き込んだの? そ……その姿でイアンの前に現れたっていうの?」 「いちおう四つんばいになっておいたがな」 「しゃべったのならそんな小細工無意味よ!」 「ま、いいじゃないか。リディア、女王の舞踏会《ぶとうかい》から放り出されたあんたを、家まで送り届けてくれたのはあいつさ。例の手紙は、おれが渡しといた。ちょっと驚いてただけだぜ。いちおう事情も説明したがな」 「でも、あんな取り引き……。彼は二度と、『銀月夜』を弾《ひ》けなくなってしまったのよ!」 「かまわないよ」  石段の向こうから、イアンが姿を見せた。 「女王に気に入られなきゃって真剣だったからかな、最高の演奏ができた。たぶん二度と、今夜ほどの『銀月夜』は弾けないだろう。ここで聴いてくれた人の心に残ればいい」 「レイノルズさん……」 「ありがとう、リディア。僕は何も失っていないよ。むしろこれから、もっといい演奏ができるかもしれないって手応《てごた》えを得られた。だから君も、何も失っちゃいけないんだ」  やさしい笑顔がうれしくて、そしてほんの少し、胸が痛かった。 「そうだわ、これ」  ようやく思い出し、バラの花を差し出す。 「すばらしかったわ。本当の、あなたの演奏が聴けてよかった。……うまく言えないけど、バラ一本じゃ足りなくて、ニワトコをめいっぱいプレゼントしたい気分」  濡れた目をこすりながら、必死に言うリディアの気持ちは通じただろう。 「うん、うれしいよ」  握手を交わして別れた。その暖かい手を胸に刻み、リディアは二本足で歩く猫と家路につく。 「あのなリディア、ニワトコでよろこぶのは妖精だけだぜ。人間の常識も学べよな」  ふさふさしたしっぽを踏んづけてやらなかったのは、今夜は気分がよかったからだろう。 [#改ページ] [#挿絵(img/mistletoe_036.jpg)入る] [#改ページ]     雪水晶のフェアリーテイル [#挿絵(img/mistletoe_037.jpg)入る] [#改ページ] �妖精に関するご相談、よろず承《うけたまわ》ります。        妖精博士《フェアリードクター》、リディア・カールトン�  依頼人は、老婦人だった。少々派手とも思えるサフラン色のドレスに、毛皮のケープをまとい、夕暮れ時にひとりでやってきた。 「まあ、妖精に求婚されたんですか?」  思わず声をあげたリディアに、老婦人は少女のように無垢《むく》な笑みを浮かべたまま頷《うなず》く。 「そうなの。ぜひお受けしたいと思うのだけど、周囲に反対されて。妖精と結婚するのが、そんなにいけないことなのかしら」 「いいえ、昔からたまにあることですわ」  久しぶりの、まともな仕事になるかもしれないと、リディアははやる気持ちで、親身になろうと身を乗り出した。 「それで、お相手はどんなかたなんですか?」 「わたしには、若くて美しい殿方《とのがた》にしか見えないのだけれど、とても神秘的な感じがするの。人ではないと知っても、驚かなかったわ」  とすると、そのへんに群れているブラウニーやホブゴブリンではなさそうだ。 「ハーディさん、まずはそのかたに会わせていただけませんか? それからあたしが仲介役《ちゅうかいやく》になって、あなたのお身内を説得してみます」 「本当? うれしいわ。ご相談してよかった」  やわらかく手を握られ、リディアは満足する。妖精が人間を見そめるという話は、たいてい若い娘が対象だが、なにしろ妖精族は種類も多い。この純粋な老婦人をかわいい人だと感じれば、妖精が見そめるのもわかる気がするのだった。 「じゃあ、お茶を淹《い》れますからちょっとお待ちくださいね。詳しい話はそれからに」  リディアはそっと立ちあがった。  うまく話をまとめなきゃ。おめでたいことなんだもの。妖精博士《フェアリードクター》として認められるきっかけになるかもしれない。  なにしろ世間では、妖精なんておとぎ話だと思われている。ちょっとばかり昔なら誰もが妖精の存在を疑わなかったというのに、十九世紀に入って以来、生活の急速な変化とともに、英国《えいこく》中の人々が妖精と隣人《りんじん》だったことなど、圧倒的な早さで忘れられていった。  けれどリディアは、彼らがそこら中にいることを知っている。いつでも見えるし、声が聞こえる。いつか亡き母のように、人に頼られ尊敬される妖精博士《フェアリードクター》になろうと思う。  今のところはまだまだ未熟者《みじゅくもの》だが、やる気だけはじゅうぶんあるのだ。 「あのばあさん、ぼけてんじゃないだろうな」  棚《たな》の上から声がした。ビスケットがひとつ、宙に浮く。と思うと、パリパリとかじられる。  ぺろりと舌なめずりし、ようやく姿を現したそれは、毛足の長い灰色の猫だ。棚の上に座り後ろ足を組む。お気に入りのタイと自慢のヒゲを前足で整え、リディアを見おろした。 「ちょっとニコ、失礼よ!」 「しかしな、あんたの場合、いくら妖精が見えても、人を見る目がないからな」 「あのね、人間のことは、人間であるあたしのほうがわかってるはずなの」  ポットに湯を注ぎながら、リディアは反論した。 「しかしなあ、この前の客は自称天使さまだった。その前は自称|霊媒師《れいばいし》、いかれた連中の妄想《もうそう》を鵜呑《うの》みにして、何度も失敗したんじゃなかったか? あのばあさんだって、色男の妖精にプロポーズされただなんて、妄想じみてるだろ」  ふらふらとしっぽを動かす灰色の猫は、リディアの幼なじみで、本当は妖精だが、とにかくかわいげがない。  だいたい、猫らしくもない猫に説教されたって、説得力があるわけがないのだ。 「今度こそ、ちゃんとした依頼よ。人の姿になれる妖精はたしかにいるもの」  そのとき、玄関の呼《よ》び鈴《りん》が激しく鳴った。 「あら、またお客さま? ニコ、お茶を淹れておいてね」 「えー、妖精使いが荒いったら」  かまわずキッチンを出ると、玄関へ向かう。  急いでドアを開ければ、恰幅《かっぷく》のいい紳士《しんし》が帽子を取った。 「伯母《おば》がじゃましていると思うのだが」 「はあ、ハーディさんのことですか?」 「失礼」  言うなり彼は、部屋の中へと入ってくる。応接間のソファに老婦人の姿を見つけると、乱暴に腕を引いた。 「伯母さん、恥ずかしいことはやめてくれ。妖精だの結婚だの、近所でいい笑い者だぞ」 「ちょっと待ってください。そんなふうに決めつけないで。妖精に見そめられるのは、そんなにめずらしいことじゃないわ」  リディアはあわてて割って入った。紳士は、あきれきった顔をリディアに向ける。 「なるほど、カールトン家の令嬢《れいじょう》は変わり者だと聞くが、噂《うわさ》どおりだな。頭のぼけた老人と話が合うわけだ」 「わたし、ぼけてなんかいないわよ。あなた誰? 離してくださいな」  老婦人が声をあげた。 「何言ってるんだよ、伯母さん」 「わかったわ、父の差し金ね? どうしてもわたしを、銀行家のところへ嫁《よめ》入《い》りさせようとしているんですものね」  まったく、とため息をつき、紳士はリディアの方を見た。 「これでわかっただろう。伯母は自分がまだ、若い娘でいるつもりなんだ」 「あの、でも、だからといって妖精と出会ったことが作り話だとは……」  しかし紳士は、むりやりハーディ夫人を連れていこうとする。 「悪いがお嬢さん、これ以上妖精の解説をすると、君の正気を疑うぞ」 「でもあたしは、フェアリードクターよ! 妖精に関してはプロなんですから、もう少し話を聞いて下さい……」 「フェアリードクター? 妖術《ようじゅつ》でも使うのか? さもありなん。君は妖精の血を引く取り換え子だというからな。妖精がいるというなら、本当にそうなんだろう」  取り換え子。人間の赤子をさらう代わりに、妖精が自分たちの赤子を置いていくという。  この家の娘だと信じているリディアには、心を傷つけられる噂だった。金色がかった緑の瞳《ひとみ》や、少しきつめの目鼻立ちが、どことなく異世界の住人を連想させるらしく、幼い頃から、しばしば、そんなふうにささやかれた。 「だがね、夢物語に伯母を引きこまないでくれ。夢と現実の区別がつかなくなるからな」  落ちこんだリディアは、老婦人とその甥《おい》が出ていくのを、止める気力を失っていた。  人々は、妖精なんていないと言うのに、ときおり思い出したように妖精の悪口を言う。  世界中から新しい物や文化が集まってくるこの大英《だいえい》帝国は、変化を受け入れることに忙しく、不合理で曖昧《あいまい》なものは切り捨てられていく。けれども本質的に、妖精との関係は断ち切れず、だからこそ人々は無意識に彼らの存在を無視し、忘れようとしているのかもしれない。 「やっぱりあの人、ぼけてたんじゃないか」  ドアに寄りかかって二本足で立っている猫は、ティーカップを片手に淹れたての紅茶をすすった。  どうしてこいつってば、猫舌じゃないのだろう。そんなことをぼんやりと思いながら、リディアはため息をつく。 「でも、そんなふうに思えないのよ。自分が少女のつもりでいたって、わざわざ妖精の恋人を夢想する? 人間の美男でいいじゃない」  言いながら視線を動かせば、戸口にきらりと輝く物が落ちているのに気がついた。 「あら、ハーディさんが落としたのかしら」  水晶《すいしょう》細工の、小さなペンダントだった。雪の結晶《けっしょう》をかたどったそれを拾い上げれば、氷のように冷たい。 「これ……、雪水晶《ゆきすいしょう》だわ!」  それは深い水の底で生まれる夢の結晶。淡水《たんすい》に棲《す》む妖精が立てたかすかな泡《あわ》を核に、星明かりの粒子が集まり結晶し、美しい六角形の花をつくると、聞いたことがある。 「へえ、本物か?」  受け取って、ニコはぺろりとなめた。 「ふむ、氷の味がする」 「ちょっとニコ、溶けちゃうじゃない」 「雪水晶は溶けないよ。火に投げ込んでもな」  言って、ティーカップの中に入れた。  ミルクティーの中に、透明《とうめい》な雪の花が咲く。 「ねえニコ、だったらハーディさんは妖精に会ったことがあるってことになるわ。だってこれは、水に棲む妖精にしか見つけられないはずだもの。やっぱり彼女は、本当のことを言ってたのよ」 「おいおいリディア、とんでもないぜ。水の中に棲んでて、美しい若者の姿で現れるなんて、あの獰猛《どうもう》な水棲馬《ケルピー》しかいないじゃないか」 「ケルピー? まさか。この町の近くで見かけたこともないわ」 「川を伝《つた》ってきたのかもよ」  それは、淡水に棲む美しい馬だ。だがその魅惑《みわく》的な姿に惹《ひ》かれ、近づいた者は、水中に引きこまれ食べられてしまうという。翌朝、食べ残された肝臓《かんぞう》だけが、水縁《みずべり》に打ち上げられると伝え聞く、恐ろしい妖精だった。 「……大変、ハーディさんを水の中へ誘い込むつもりだったら……。ニコ、行くわよ!」 「どこへ?」 「ケルピーがいるかどうか、確かめるの」 「やだなあ、肝臓だけになりたくないね」  姿を消そうとしかけたニコの、首根っこをつかむ。目の高さまで持ちあげ、リディアは彼をにらみつけた。 「化け猫のくせに、肝臓があるの?」 「ああもう、離せよ。毛並みが乱れるだろ!」 「一緒に行くわね」 「わかったって。まったく気が短いんだから。でも夜は危険だから明日だぞ、いいな」  おろしてやると、彼は不満げに鼻を鳴らしながら、ふさふさした灰色の毛を、素早く手ぐしで整えた。  翌日、リディアはさっそく、町はずれの川原《かわら》へ向かった。人影のない川原は、曇《くも》り空のもと灰色の空気に包まれ、荒涼《こうりょう》として見える。  リディアはニコと、慎重《しんちょう》に川縁《かわべり》へ近づいていく。水面が不自然に波立ったりしないか、気をつけながら。 「なあリディア、人がいるぞ」  強い風に巻きあげられる髪をおさえながら、風景に目を凝《こ》らせば、川縁にたたずんでいる人影があった。 「ハーディさん! どうしたんですか?」  昨日の老婦人だった。リディアは急いで駆《か》け寄る。白い髪をショールで覆《おお》い、じっと川面《かわも》を見つめていた彼女が振り向いた。 「まあ、ミス・カールトン。昨日はごめんなさい。やっぱり父は、妖精との結婚なんて許してくれそうにないわ」 「あの、そのことなんですけど……」 「だけど、親身になってくれて、本当にうれしいの。わたしの話を信じてくれたのは、あなただけだもの」 「ハーディさん」 「ルースよ。そう呼んでくださらない? お友達になりたいの」 「ええ、もちろん」 「これから彼と会うの。ちょうどよかったわ、紹介するわね」 「えっ、ここへ水棲……、彼が?」  気がつけば、ニコはさっさと姿を消していた。あの薄情者、と思いながらも、ケルピーが現れるという危険な川縁から、ハーディ夫人を引き離さなければならなかった。 「とにかく、えっとルース、ここは風が強いわ。林の方まで戻りましょう」  どうにか彼女を歩かせようとしたとき、すぐそばで声がした。 「おい、娘。おまえがそうか?」  振り返ったリディアの前に、若い男が立っていた。漆黒《しっこく》の巻き毛、精悍《せいかん》な顔立ちとたくましい体つき。均整《きんせい》が取れて美しく、人間離れして見えるほど完璧《かんぺき》な容姿だった。  その男は、にらみつけるようにリディアを覗《のぞ》き込んだ。 「ふうん、意外とべっぴんだな」 「……それはどうも」 「それになかなかいい尻《しり》だ」  スカートの上から撫《な》でられ、反射的に手を振りあげる。 「何すんのよ!」  平手が男の頬《ほお》に命中する。その瞬間、強い風が巻きあがり、川面が激しく波立った。  リディアの目の前で、男が姿を変じる。漆黒《しっこく》の、あやしいまでに美しい馬に。 「ケ、ケルピー? ルース、あなたの彼?」 「違うわ……、彼は銀色の髪の……」  ルースを背後《はいご》にかばいながら、リディアはあとずさった。 「なんだ、おまえじゃないのか。なるほど、人間はすぐ歳《とし》をとるってことを忘れてたな」 「あなた何なの。ルースの彼はどうしたの?」 「弟の花嫁《はなよめ》が、どんな女か確かめに来た」  水棲馬《ケルピー》はゆっくりと、彼女たちの周囲を歩く。震《ふる》えながらも、リディアはポケットの中の小枝を探った。 「人間と結婚して、一族の土地を離れるなどと言う。むろん俺は反対したが、聞く耳を持たない。いったいどれほどの女なのか。ろくでもないやつなら、俺が喰《く》ってやろうと思ってな」 「近づかないで!」  サンザシの小枝をさっと突き出し、リディアは叫んだ。 「あたしは、フェアリードクターよ。この人に危害を加えたら承知しないから!」 「おまえみたいな小娘が? だいたいそんなちゃちな魔よけ、俺さまに通用するかよ」  水棲馬は大きくいなないた。その姿が間近にせまると、恐ろしくて声も出ない。リディアは思わず目をつぶる。  と、ふわりとやわらかい感触が頬を撫でた。 「兄さん、やめてくれ」  おそるおそる目をあければ、銀髪の若者が黒馬と向き合いながら、リディアたちをかばうように立っていた。  さっきのやわらかな感触は、彼の長い髪、いや、たてがみだったのだろうか。 「ルース……!」  銀髪の彼は、恐怖に気を失ったらしいルースに駆け寄った。      *  それは半世紀も前のこと。ルースは高地《ハイランド》で育った。水棲馬が棲《す》んでいるという地方だ。  若き日のルースと、人の姿をまとった銀の水棲馬は出会い、恋におちた。しかし彼女には、父親が決めた婚約者がいて、そのうえ彼は、自分が人をも喰う獰猛な種族であることを知られてしまえば嫌われるだろうと、やがてルースの前から姿を消した。  しかし何年|経《た》っても彼女のことが忘れられず、人の命が短いことを思えば今しかないと、川を伝ってこの町までやってきたのだという。  ルースはまだ、彼のことを忘れていなかった。彼が贈った雪水晶《ゆきすいしょう》を大切にしていた。再会したうれしさのあまり、結婚を申し込んでしまったが、結局彼は、自分が水棲馬だとは告げられないままだった。  弟のケルピーは、リディアにそう語った。  物静かで繊細《せんさい》な印象。兄とは違いほっそりしているものの、彼も完璧な容貌《ようぼう》だった。  リディアの家の応接間に、二匹の水棲馬が座っている。もちろん人の姿をしているが、ありえないわね、と何度もリディアは心の中でつぶやいた。  だが現実には目の前に、行儀《ぎょうぎ》よくひざに手を置いている銀髪と、ふんぞり返っている黒髪と、ふたりのとんでもない美男がいる。  しかも、馬なのよ、馬。  意味もなく、そう毒づく。  倒れたルースは、弟の方がこの家まで運んでくれて、今は別室で横になっている。リディアは黙って、水棲馬の話を聞いていた。 「フェアリードクター、私はこの地を去ります。今さら、会いに来るべきではなかったのです」 「おい、それでいいのか?」  兄の方が口を出した。 「兄さんは、反対してただろう?」 「身内としちゃ、反対だ。人間はどうせすぐに死んじまう。妖精界に連れていったって、やっぱり寿命《じゅみょう》はあるからな。だが、ずっとおまえがつらい思いをしてきたのは見てた。この先も、そんなおまえを見ているのはつらい」 「あら、けっこういいところもあるのね」 「あたりまえだ。俺さまを何だと思ってる」 「野蛮《やばん》なケルピー」 「このクソアマ、喰ってやろうか?」 「ふん、水辺から離れたケルピーに、そんな力がないことくらいわかってるのよ。でなきゃ家へ入れるもんですか」 「生意気な女だな。まったく、人間の女のどこがいいんだ?」 「ルースはしとやかでやさしい女性だよ」  言ってしまってから弟は、はっとあせった様子でリディアを見る。 「いえあの、人間の女性はいろいろ個性的だということで」 「……いいのよべつに、馬に気を遣《つか》ってもらわなくたって」 「馬と言うな。俺たちは気高《けだか》きケルピーだ。だけどこいつはな、出来そこないのケルピーだ。ふつう俺たちは、なわばりを持って孤独に暮らすもんだ。だがこいつは、淋《さび》しいとかでいつも俺にくっついてきた。だいたい、人と接して伴侶《はんりょ》にしたいなんて考えるのも出来そこないだからだ。だから俺が保証する。人間と仲むつまじく暮らすなんて、ふつうのケルピーにはできないが、こいつならできる」 「でも、弟は去ると言ってるじゃない。その方がいいわ。人間とケルピーの結婚なんて、どう考えても無理があるもの。ルースだって、あなたの姿を見て気絶したくらいよ。自分の恋人が水棲馬だと知って、ショックを受けてるんじゃないかしら」  黒髪のケルピーは、自分の出しゃばりをいちおう反省しているのか、むっつりと黙った。 「兄さんのせいじゃない。これでよかったんだ。どうせ知られることだし、これまでの間、彼女が私を覚えていてくれたとわかっただけで、満足してる」  それじゃあ、とリディアは立ちあがる。スカートのポケットから、雪水晶を取り出す。 「これは、あなたがルースに贈ったものね」 「なんでおまえが持ってるんだよ」 「ルースが落としていったのよ。とにかく、これさえ処分すれば、あなたは二度と彼女に近づけなくなる」  |悪い妖精《アンシーリーコート》からの接触を断つために、しばしば使われる手段だった。断ち切りたい妖精から与えられたものを処分する。そうすれば、妖精はその人間を見失う。 「おい、そこまでする必要ないだろう」 「いいえ、かまいません。そうしてください」  弟は神妙《しんみょう》に、けれどきっぱりとそう言った。  獰猛《どうもう》な獣《けもの》の精。けれどケルピーは、力強く高潔《こうけつ》な存在感で人を惹《ひ》きつける。もちろんそれは、人をとらえ喰うための、彼らの手段だ。  物静かではかなげな銀の髪の青年が、どれほどルースを想《おも》っても、彼女のために身を引こうとしているつらさをかいま見せても、種族の血はひそんでいるはずだと、リディアは同情してしまいそうな自分に言い聞かせた。 「しかしなあ、リディア、雪水晶をどうやって処分するかわかるのか?」  兄弟が帰ってしまうと、ソファのひじ置きに寝そべったまま姿を浮かびあがらせたニコが、ふてぶてしくにやりと笑った。 「ちょっとニコ、さっきはよくも、あたしを置いて逃げたわね!」 「逃げちゃいない。姿を見えなくしただけさ」 「じゃあ、そういうことにしておいてあげるわ。だから雪水晶のこと教えなさい」 「悪いけど、おれも知らないのさ。砕こうにも燃やそうにも、無理だってことだけは知ってるけどな」 「なによそれ。だったら、えらそうな態度はやめてよね」  いざというときに役に立たない猫だ。 「でも、ルースが知ってるかもよ」  言って彼は、あごをしゃくって戸口の方を示した。  隣室《りんしつ》で休んでいたはずのルースが、目覚めたらしく、戸惑《とまど》い気味の表情で立っていた。 「ルース、気がついたの。気分はどう?」  駆《か》け寄り、手を引いてソファに座らせる。  ぼんやりした様子で、彼女はほどけた白い髪を、自分のものかと確認するように指ですくった。 「忘れていたわ。わたしはもう、年老いてしまった。彼のもとへ行くことなんて、できやしないのね」  その言葉を聞きながら、リディアは不思議に思った。 「あなた、ケルピーが怖くないの?」 「ケルピー? ああそう、子供のころ、牧師さまに恐ろしい水棲馬だって聞かされたわ。ひとりで水辺に近づいちゃいけないって、教えられた。だから彼のこと、うすうすケルピーかもしれないと感じていたわ」 「……それでも、好きになったの?」 「少しも怖くなかった。彼はいつでもやさしかったもの。でも、やさしすぎるから、水の中へ連れていってくれなかったんだわ」  ケルピーだと気づいていた。ルースは、黒馬が脅《おど》かしたから気絶しただけで、恋人がケルピーだということにショックを受けたわけではないのだった。  誤解して、弟は去る決意をした。 「彼が姿を消したとき、後悔したわ。ケルピーだからって、どこか退《ひ》いていた自分に気づいたの。人間にだっていい人と悪い人がいるのに、どうして彼のことを信じ切れなかったんだろうって。……結婚してこの町へ来て、何十年と経《た》っても、後悔は消えなかった。けっして不幸ではなかったけど、夫との間に子供はなくて、事業を継いだのは甥《おい》。未亡人になってから、ハーディ家の中で、どうしても異邦人《いほうじん》のように感じ続けている自分がいたわ」 「だから、今度こそ彼についていこうと思ったのね?」 「昔と変わらないままの彼が、もういちどわたしを望んでくれるならと……」  でも、ケルピーを信用するなんて、妖精博士《フェアリードクター》としてはできないこと。あの弟が、水棲馬の中では特殊なのだとしても、リディアは、悪い妖精を人から遠ざけるのもフェアリードクターの仕事だと母から教わっている。  人と妖精は、時には接点を持ち、よい関係を築くこともあるけれど、どうしても相容《あいい》れない、触れてはいけない領域もある。  |悪い妖精《アンシーリーコート》と分類される彼らは特に、妖精をよく知る者にとってもはかりしれない存在だから、安易に結婚など勧められない。 「でも、バカね。彼が変わってなくても、わたしは変わってしまった。今のわたしを見て、彼はがっかりしてたんでしょうね。やさしいから、そんなふうに言えなかったんだわ」  ルースは、自分のひざに置かれたリディアの手に、雪水晶《ゆきすいしょう》のペンダントを見つけ、小さくため息をついた。 「未練がましくこんなものを大事にしてたから、彼もわたしを不憫《ふびん》に思ったのかしら」  リディアの手からそれを受け取り、ルースは鎖《くさり》をはずす。雪水晶だけを、そっと口元へ運ぶ。 「な、何するの?」 「飲み込んでしまえば、溶けて消えるんですって。そうすれば、彼にはもうわたしが見えなくなる。……もっと早く、こんな年老いた姿を見られる前に、そうしておけばよかった」  それが、雪水晶を処分する方法。  そしてリディアは気がついた。わざわざケルピーは、ルースに彼を遠ざけることのできる方法を教えていたのだ。  ケルピーの本性は、彼自身がいちばん知っている。だから、彼の正体を知ったルースが、怯《おび》え恐れなくてすむように。そんなルースを、見なくてもすむように。  それが彼の、心からの想い。  水棲馬と人間は相容れない、はず。でも。 「だめよ、やめて!」  リディアは思わず、ルースの手から雪水晶をもぎ取っていた。呆然《ぼうぜん》とする彼女にたたみかける。 「あきらめちゃだめ! 彼はあなたのこと、今でも愛してるわ。でも自分がケルピーだってこと、知られて嫌われるのを恐れてただけ。ああもう、どっちもお互い、よけいなことに気を回してるだけじゃないの。好きだったら、本音をぶつけて、彼の本音も確かめてみたらどうなの?」 「え……でも……」 「さあ、行くわよ。早くしないと、彼らが町から去ってしまうわ!」  強くルースの腕を引く。  リディアは家を出て、川縁《かわべり》へと急ぐ。有無《うむ》を言わせぬ勢いに圧倒されたのか、ルースは結局、引っぱられるままについてきた。  吹きさらしの土手に立てば、川面《かわも》は灰色の雲を映し、相変わらずくすんだ色をしていた。  まばらな木立《こだち》の間を縫《ぬ》って、リディアは川へ近づいていく。やがて立ち止まり、まっすぐに水面を見つめる。 「おいおいリディア、ケルピーとの縁を断ち切るんじゃなかったのか?」  追いかけてきたニコが言う。 「……そうね。フェアリードクターとしては、そうするべきだと思うわ。でもあたしは、ルースとは友達なの。相思相愛《そうしそうあい》なのに、引き裂《さ》くなんてできない」  リディアは、きっぱりと言って川面に向き直った。 「ねえケルピー、聞こえる? ルースは、あなたが水棲馬でも怖くないって言ってるわ! だから、ちゃんと確かめたいの。あなたはどうなの? おばあさんになった彼女だから、もう好きじゃないの?」  緩《ゆる》やかな流れが、不意に波立った。  ざっと水しぶきを立てて、水棲馬が現れる。  銀と黒の兄弟は、虹《にじ》色の水滴をたてがみにまとわりつかせ、水面にすっくと立った。  淡い光に包まれて見える。彼らの周囲は、この世ならぬ精霊の世界の、不思議な光に彩《いろど》られている。  神秘的な光景を目の前に、リディアは畏《おそ》れを感じながらも、不安げなルースのために、気丈《きじょう》な声を張り上げた。 「ああもう、煮え切らないわね。ちょっと弟、それでも男? 水棲馬でも貧乏でも愛があればって口説《くど》くもんでしょ、ふつう!」 「ケルピーと貧乏が、同じ次元の話かよ」  ニコのつっこみは、耳に入らない。 「来ないの? それでいいの? だったらルースが、この雪水晶を飲み込んじゃうわよ!」  気が短い、としばしばニコに指摘されるけれど、どうにもならない。苛立《いらだ》ちながらリディアは、ルースに雪水晶を押しつける。 [#挿絵(img/mistletoe_059.jpg)入る]  そのとき、銀色のケルピーが、そっと進み出た。ふわりと舞うように姿を変じる。  銀の髪の美しい青年に。 「……ルース、君は少しも変わっていない。私に見えるのは、君の魂《たましい》の姿だけだ。もしも本当に、私を恐ろしいとは思わないなら、君の残された時間を、私にくれないか」  手のひらに雪水晶を握りしめ、ルースはかすかに頷《うなず》いた。  それからリディアの方を見て、微笑《ほほえ》む。やわらかく抱きしめられる。 「リディア、ありがとう……。お友達になれてよかった……」  腕をほどき、静かに離れると、ゆっくりと彼のもとへ近づいていく。水棲馬がまとっていた光が、やがてルースにも届くと、白かった髪が明るい赤毛へと変わり、溌剌《はつらつ》とした少女の姿で青年の腕に抱きとめられるのを、リディアはうるんだ視界で眺《なが》めていた。      * 「せっかく人間の友達ができたのにな。妖精界へ送りだしてしまうとは」  灰色の猫は、椅子《いす》にちょこんと腰かけ、前足でかかえたカップの、紅茶の香りを楽しむようにヒゲをひくひくさせた。 「しかたないでしょ。ルースのためだもの」 「で、人間の友達を作るのはあきらめて、妖精の連れを増やすことにしたのか?」  ニコがうさんくさげに細めた視線の先で、黒い巻き毛の男がビスケットをかじる。 「何だこれは。頼りない食いもんだな」  リディアは、ポットを持つ手を震《ふる》わせながら、眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を寄せた。 「……だいたい、どうしてあなたがここにいるのよ、兄ケルピー!」 「弟が花嫁《はなよめ》と新天地へ旅立っていったからな。俺としては、退屈になったというか」 「だからって、うちへ来ることないでしょ!」 「俺も人間に興味がでてきたんでね」 「リディアを観察したって、人間一般には当てはまらないかもよ」 「ちょっとニコ、どういう意味よ!」  リディアは声を張り上げる。猫を相手に、大声でひとりごとを言うカールトン家の変わり者娘、と近所でささやかれていることには、まだ当分気づけそうになかった。 [#改ページ] [#挿絵(img/mistletoe_062.jpg)入る] [#改ページ]     恋占いをお望みどおり [#挿絵(img/mistletoe_063.jpg)入る] [#改ページ]  好き、きらい、好き、  ……きらい……  最後の花びらが、そのひとこととともにひらひら地面に散ると、彼女は大きくため息をついた。  花占いを、何度やっても同じ結果だ。  期待しても無駄《むだ》だと花に念を押されているようだというのに、あきらめきれずにまた一本、売り物の花を手に取る。  そのとき、気まぐれな風が吹いて、一輪の花とともに彼女の帽子が吹き飛ばされた。  それは通りを歩いていた青年の足元に落ち、彼はこちらへと近づいてくると、拾った帽子を手渡しながら親しげに微笑《ほほえ》んだ。 「花売りのサラって、きみ?」 「そうだけど」  お礼を言うよりも、サラは、この雑然とした市場の風景に似合わない、青年の外見に気を取られた。  黒のトップハットから明るい金髪が覗《のぞ》く。上品なフロックコートが細身の体を包んでいて、足元には泥《どろ》の方が遠慮しそうなほどぴかぴかに磨かれた靴。  おまけに、難癖《なんくせ》のつけようがないほど整った顔立ちだ。感心しながら、サラは不躾《ぶしつけ》にも彼をじろじろと見た。 「きみの花で占いをすると、とてもよくあたると聞いたのだけど、本当かい」  おだやかな声でつむぎ出される言葉は、完璧《かんぺき》な上流英語。  彼のような上流階級の人間を、昼間の市場で見かけることはあまりなかった。  彼らは夜になるとやってきて、通りの向こうにでんとかまえたオペラハウス、シアターロイヤル・コヴェントガーデンへすいこまれていくのだ。  まだ陽《ひ》も高いうちに現れた彼は、わざわざサラの花を買いに来たのだろうか。 「さあね、そう言ってくれる人は多いけど」  いつからか、サラの売る花で花占いをすると、よくあたるという噂《うわさ》が広まっていた。そのせいで、恋の悩みをかかえた男女が花を買いに来る。ありがたいから、あたるのかと訊《き》かれれば、サラはとくに否定しないことにしている。  しかしこの人に、占いたいようなことがあるとすれば少々意外だった。 「旦那《サー》だったら、占う必要ないんじゃない? 気のあるそぶりを見せりゃ、すぐつれるよ」 「どうかな。たとえばきみは、そんな簡単に僕を好きになれる?」  いたずらっぽく彼は笑う。上流階級特有のとっつきにくさがなくなって、親しみをおぼえるような笑顔だった。 「あ、あたしは……、いくらなんでも」 「好きな人がいるから? 必死に占ってたね」  見られていたのかと、サラは少しはずかしくなって、帽子をわざと目深《まぶか》にかぶる。 「きみだってとってもチャーミングだ。でもうまくいかない恋をしているなら、わかるだろ? 人の気持ちは思いどおりにはならない」 「うん……、そうだね。望みどおりの結果がでるといいね」  こんなに恵まれて見える人でも、同じように悩むのかと親近感をいだきながら、マーガレットの一束《ひとたば》を、彼に差し出す。 「だめだったら、また買いに来よう。片想《かたおも》いに悩む者どうし、慰《なぐさ》め合うって手もある。そういうところから、恋が芽生《めば》えることも」  ふふ、と笑いながら彼は、花を受け取り、銅貨を手渡した。  それにしても、酔狂《すいきょう》なことを言う紳士《しんし》だ。花売り娘を口説《くど》こうとする貴族なんて、聞いたことがない。 「旦那、おかしいよ。恋を実らせたいなら、見境《みさかい》なく女の子にいい顔するのはやめたほうがいいんじゃない?」 「なるほど。いい考えだ。きみのこと、ますます気に入ったよ」  助言の効果などまるでないせりふを残して、彼は去っていった。変な人、とそちらに気を取られていたせいで、サラはおつりを渡すのを忘れていた。  あわてて追いかけたが、市場|界隈《かいわい》の人込みに紛《まぎ》れ、すでに姿は見えなくなっていた。  いったい、どこの誰だろう。 「ま、いっか。オペラハウスの前をうろついてたら、また会えるよな」      * 「ちょっとエドガー、どういうつもりよ!」  帰宅した彼を待ちかまえていたリディアは、玄関ホールまで突進していって、この屋敷の主人である若き伯爵《はくしゃく》に詰め寄った。 「やあリディア、怒った顔も魅力的だよ。ところで何の話?」 「オペラよ。あたし行かないって言ったでしょ。なのに今日の予定だから着替えろってハリエットさんが。どういうことなの?」 「うん、先週は行かないって言ってたから、今日にしたんだ」  行かないって言ったら、先週だろうが今日だろうが同じじゃないの! と言いたいが、エドガーの毎度の屁理屈《へりくつ》にリディアは閉口《へいこう》させられる。  それに、直前までわざと黙ってたのは、むりやり連れていこうって魂胆《こんたん》だ。  頭にきながらも、言いなりになるのはしゃくだと、リディアはエドガーのあとを追ってジェントルマンズルームへ入っていく。 「だからあたしは、華やかな場所は苦手だって言ってるでしょ。女の子を連れていきたいなら、貴族の令嬢《れいじょう》を誘えばいいじゃない。あなたに誘われて断る女の子なんていないわ」  くるりと彼は振り向く。 「じゃあどうして、きみはいやがるんだ?」 「それは……、だって外国語なんでしょ。どうせあたしにはわからないもの」 「大丈夫だよ。ロッシーニのチェネレントラだ。イタリア語だけど、物語はきみもよく知ってるはずのシンデレラだよ。隣で解説してあげるし、きっと楽しめるって」 「でも……」  貴族がたくさん集まる場、社交界の顔見せみたいなオペラハウスへ出かけるなど、田舎《いなか》出の少女には荷が重すぎるではないか。  なのにエドガーは、上流階級の集まりにリディアを連れていきたがる。伯爵家付きの妖精博士《フェアリードクター》という存在を、社交界で認知させたいらしいが、単にめずらしいものを見せびらかしたがっているだけのような気がする。  エドガー・アシェンバートは、妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》の称号を持つ。十九世紀ともなる現在、伯爵が本当に妖精の国に領地を持っていると信じている人はめずらしいだろうが、少なくとも英国内にある彼の土地には、伯爵を領主と認めた妖精たちが暮らしている。  妖精など見えないエドガーに代わって、妖精関係のあらゆることに対処するため、フェアリードクターのリディアが雇われた。  雇われてまだ間《ま》がないが、これまでにもリディアはエドガーに連れまわされ、何人か貴人に紹介されているのだった。  妖精博士《フェアリードクター》という、妖精に関する知識を持ち、彼らと人の間に生じるトラブルの解決を仕事としていた者は、かつては英国中にいたが、今となっては絶滅|寸前《すんぜん》だ。そんなだからこの仕事を、人に理解してもらうのは難しい。  ほとんどの人が、彼女自身を妖精でも見るかのようにめずらしがるだけだ。  だんだん、無理をして人前に出ていく必要があるのだろうかと思い始めているから、オペラハウスへ行くなんて億劫《おっくう》だった。  しかしエドガーは、逃げ腰なリディアをあくまで説得しようとする。 「僕にひとりで行かせたいの? パートナーにふられたんだろうって、笑われてもいいってこと? このロンドンの社交界に、後ろ盾《だて》もなくはじめて入っていかなきゃならないんだ。僕のような若輩者《じゃくはいもの》が、どうやって社交界で自分を印象づけるか悩んで、せめてきみがいっしょにいてくれれば心強いと考えているのに、見捨てるんだね」  おどしと泣き落としの手練手管《てれんてくだ》は並じゃない。しかも彼は、王子さま然とした美貌《びぼう》で、どんな女の子でも思いどおりにしてしまう。  いつでもどこでも、堂々としているのを通り越して中心人物になってしまう彼が、オペラハウスごときでそんなに弱気になっているわけがないというのに。 「頼むから、行かないなんて言わないでくれ」  なのに、手の内を知っていてさえ、頼み込まれればリディアははねつけにくくなってしまうのだった。 「貴婦人らしくなんて振る舞えないわよ」 「笑って座ってるだけでいい」  そう言って、すぐさまメイド頭《がしら》を呼んだのは、リディアの曖昧《あいまい》な返事を承諾《しょうだく》にしてしまうためだ。 「ハリエット、ライムグリーンのドレスを仕立ててあったよね。リディアの瞳《ひとみ》によく似た色。社交界を牛耳《ぎゅうじ》っている某《ぼう》貴婦人と、色がかぶると面倒だけど、あれなら大丈夫だ」  そういうことにまで気を遣《つか》わなければならないのか。にしても、さっさと情報収集をしているエドガーに、リディアは感心していいのかあきれるべきなのかわからなくなる。 「リディア、それでいい?」  しかしもう、あきらめつつリディアは頷《うなず》くしかなかった。  何かとエドガーに連れまわされるリディアは、これも仕事の一部だと、レディなみに外出着を用意してもらっている。が、いまさらながらふと疑問に思う。 「そういえば、あたし一度も採寸してないのに、どうやって仕立ててもらったの?」 「仕立屋《したてや》の奥さんがきみと同じくらいの背丈《せたけ》だった」 「背格好《せかっこう》がそんなに似てたのね」 「それで、胸と腰を七インチ小さくしてくれと頼んだ」  はあっ? 「ど、どうしてそんな寸法がわかるのよ!」 「なんとなくわかるじゃないか」  わからないわよ、ふつう。  ほんとこの、女たらしときたら。  あきれるやら恥ずかしいやら、リディアは頭がくらくらした。  そこへ入ってきたのは、褐色《かっしょく》の肌の少年だった。エドガーの忠実な従者だ。 「エドガーさま、馬車にお忘れでしたよ」  レイヴンは、マーガレットの小さなブーケをテーブルに置く。 「そうだった。コヴェントガーデンで噂《うわさ》の、花占いがあたるって花売り娘を見つけたんだ」 「噂どおりでしたか」 「ああ、噂以上だったよ」 「もう何か占ったの?」 「いや、その花売り娘が、黒髪で気だてがよくて、とてもキュートだってこと」  そっちの噂に興味を持ったわけ? 「でも残念ながら、彼女には想《おも》い人がいるようだった」  ブーケをリディアに手渡し、彼はマーガレットを一本抜き取る。 「まあいいさ、僕にはきみがいる」 「あたしは、フェアリードクターとして雇われてるだけで、あなたのおもちゃじゃないの」 「相変わらず冷たいね。じゃあ占ってみよう。きみが僕に恋をするかどうか」  返事をする気にもなれず、リディアがそっぽを向いている間にも、彼はマーガレットの白い花びらを、一枚ずつちぎりはじめた。  恋をする、しない、と交互に唱えられれば、花占いなんてと思っていても気になる。 「恋をする」  リディアの目の前で、そう言って最後の花びらをつまみ取ると彼はにっこり笑った。 「花占いの魔法はききそう?」 「……きくわけないじゃない」  くるりときびすを返しかけたときだった。リディアの足首に、うごめく何かが触れた。  へ、蛇《へび》!  気づいた瞬間、リディアは悲鳴をあげて、そばにいたエドガーに抱きついた。 [#挿絵(img/mistletoe_073.jpg)入る] 「いやーっ! 取って、どっかやってーっ!」  レイヴンが素早くつかまえたが、リディアは足がすくんで動けない。 「蛇、苦手なんだ?」 「どうして、こんなところに蛇がいるのよ!」 「迷い込んできたんだろう。大丈夫、小さな蛇だよ」  顔をあげかけたが、レイヴンがまだそれを握ったまま突っ立っているのに気づき、悲鳴をのみこむ。 「な、何してるのよ、早く捨てて!」 「エドガーさま、捨ててもよろしいですか?」  淡々《たんたん》と、彼は律儀《りちぎ》に主人に問う。 「うーん、もう少しこうしていたいけど」  そう言われてリディアは、エドガーにしがみついていることをようやく意識した。しかしレイヴンがすぐそばで、蛇をつかんでいるものだから動けない。 「もう、いいかげんにしてーっ!」  エドガーが許可して、ようやくレイヴンは蛇を窓から投げ捨てた。  ほっと息をつき、抱きついている彼からあわてて離れようとしたリディアを、名残惜《なごりお》しく引き止めるように、背中に手をまわしてエドガーがささやく。 「もう一インチ小さくてもよかった?」 「は?」 「ウエスト」  平手をくり出したが、さっとリディアを離したエドガーには命中しなかった。 「リディアさん、そろそろお支度《したく》を」  ライムグリーンのドレスを手に、戻ってきたメイド頭に声をかけられる。にやにや笑っているエドガーをにらみつけつつ、リディアはメイドとともに部屋を出た。 「おいリディア、何かいるぞ」  足元で聞こえた声は、妖精猫のニコだった。  リディアの相棒で、本当は二本足で歩くしおしゃれに気を遣ってネクタイもしている。しかし今は、メイド頭にあやしまれないよう、四つんばいになって歩きながら、リディアにささやく。 「何かって?」 「外から妖精が入ってきたのをちらりと見た」 「……もしかして、蛇のいたずらをしたの、その妖精?」 「かもな」  だとしても、その程度のいたずらをする妖精なら、そのへんにいるホブゴブリンのたぐいだろう。  悪意のある妖精ではない。しかし、リディアにとっては蛇を放すなんて許せない。 「ニコ、見つけてとっつかまえてちょうだい」 「いやだよ、めんどくさい」  相棒といっても、こういう奴《やつ》だ。 「いちおう教えといてやったんだから、気をつけろよ」  気まぐれな妖精猫は、そのまま姿をかき消した。      *  結局リディアは、蛇を放した妖精のことになどかまっているひまはなかった。  支度がすめばすぐさま、シアターロイヤル・コヴェントガーデンへと、エドガーに連れ出されてやってきた。  彼といっしょにボックス席へ案内されたが、そこがメースフィールド公爵《こうしゃく》夫人という女性のための特別席だと知らされたのは、もちろんその場に通されてからだった。  また黙ってたわね! と頭にくるが、今さらもうどうにもならない。  オペラハウスの貴賓《きひん》らしい公爵夫人と同席しているとなれば、あちこちの席から注目を浴びるだろう。英国に帰ってきて間《ま》がないエドガーにとって、自分の名を社交界に広める絶好のチャンスだということだ。  どこまでも計算高い男。  いきなりのことに緊張させられながらも、リディアはどうにかこうにか、おぼえたての格式張ったあいさつをする。  けれどその緊張はすぐに解けた。公爵夫人は上品な老婦人で、親しみのこもった態度でリディアを迎えてくれたのだ。 「妖精が見えるのですってね」  彼女は、疑いの気持ちなどまるで持っていない、ごく自然な口調《くちょう》でリディアに言った。 「リディア、公爵夫人は妖精を見たことがあるそうだよ」  エドガーの言葉に、夫人はやさしく微笑《ほほえ》む。 「そんなにはっきり見たわけじゃないのよ。昔、不思議なことがあって、妖精のせいだったんじゃないかしらって思っているだけなの」  エドガーがどうしてもリディアを連れてきたかったのは、どうやらこのためだ。公爵夫人の気を引くのに、リディアが役に立つと思ったから。  何かとリディアにあまい言葉をささやく彼は、そうやって思うままに人を利用するのだから始末に負えない。  しかしリディアにしてみれば、妖精の話は興味を惹《ひ》かれることだった。気を取り直して公爵夫人に問う。 「そのお話、うかがってもかまいませんか?」 「まだ結婚前の話よ。サマーセットの別荘で過ごしていたとき、このあたりには妖精が多いってメイドが教えてくれたの。窓辺にミルクを置いておくと、朝には減っているのですって。それでわたくしも、毎晩窓辺にミルクを置いていたの」  そのころ公爵夫人には、求婚者がふたりいたという。ひとりはもちろん、現在のメースフィールド公爵。とはいえ当時は貴族の次男坊にすぎなかった。もうひとりは、士官学校を出たばかりの軍人だったとか。  迷った末に、彼女は庭園に咲くマーガレットに目をとめ、占ってみることにした。  ふたりの男性の名を交互につぶやきながら、花びらを一枚ずつ取っていく。それが、何度やっても同じ結果になったのだという。  花びらの数が決まっていないというマーガレット、だからよく花占いに使われるのだけれど、どういうわけか、最後の一枚でつぶやく名前は同じ。  ふと彼女は、途中で何かに花びらの数をごまかされたかのように感じたのだとか。 「そのときマーガレットの花影で、緑色の小さな生き物が動いたような気がしたわ。ささやき声も聞こえたの。風だったかもしれないけれど」  きっと妖精だ、とリディアは思う。 「人を惑《まど》わせて、数や順番を混乱させたりなんていうのは、妖精は得意です。たぶん、ブラウニーとかホブゴブリンと同種の、小妖精がいたんだと思いますわ」 「そうなの? でも不思議ね、花占いの結果を決める妖精は、未来を知っているのかしら?」 「わかってないと思います。あの手の妖精は、ほとんど退屈しのぎというか、深い意味もなくいたずらをしているだけですから……」  説明しながらリディアは、人生を決める占いに、妖精が退屈しのぎのいたずらしていたなんて、ちょっと配慮《はいりょ》のない言い方ではないかと気になりだした。  でも、妖精に関していいかげんなことなんて言えない。自分はフェアリードクターだ。 「あのでも、いたずらといっても、本当に妖精には悪気はないんです。将来にかかわる占いだなんて思いもしないで、公爵夫人が、きっといつもミルクを置いてくださってたから、自分の存在を教えてみたくなったとか、そういうことだと思うんです」  楽しそうに、夫人は目を細めた。 「あなたには、妖精への愛を感じるわ。人の思惑《おもわく》とは無縁の、自由で小さな魂《たましい》たちを、ありのままに愛しているのね」  それだけの言葉だが、リディアと妖精たちへの思いやりがこもっていた。  うれしくて、そして親しみを感じ、自然とリディアは公爵夫人と微笑みをかわす。 「それで公爵夫人、花占いをして心は決まったわけですか?」  エドガーが問いかけた。 「ええそう。妖精には感謝しなくてはね」 「占いも信じてみるものだね、リディア」  エドガーは、彼女の機嫌《きげん》が直ったことを素早く察知したらしい。さっきの、あたるという花占いを引き合いにふざけたことを言う。  それとこれとは別よ、とリディアはそっぽを向くけれど、そういう態度をとっても、もう怒っていないことは彼にはお見通しだろう。上機嫌に微笑みながら舞台に目を向けた。 「そろそろはじまりそうですね」 「今日は、わたくしの気に入っている歌手が出るんですのよ」 「おや、どの役です?」 「合唱のひとりよ。まだまだ役がもらえるほどではないの」 「将来有望な若手なんですか?」 「どうかしら。昔の、若い頃の主人に少し似ているってだけ」 「それじゃあとびきり有望だ」  エドガーがそう言うと、少女のように彼女は笑った。  間もなく、歌劇の幕が開いた。  歌詞はまるでわからなかったけれど、はじまればすぐに、リディアは舞台に引きこまれていった。  王子役の心地《ここち》よいテノールに酔い、シンデレラとの運命的な出会いにときめく。  やがて舞台上で、家来役の男性たちの合唱がはじまると、公爵夫人のお気に入りはどの人かしらとリディアは眺《なが》めた。  そのとき彼女は、不自然に舞台を横切る小さな存在に目をとめた。 「妖精……?」  オペラグラスで覗《のぞ》いてみれば、手のひらくらいの小妖精がたしかにいた。赤毛にかぎ鼻、緑の服を着ている。特徴からすると、ピクシーではないだろうか。  堂々と歩いていくのに、誰も気づいていない。もちろん妖精は、ふつう人の目には見えないからだ。  眺めているうちに、妖精はコーラスの男性たちに近づいていった。と思うと、中でも体の大きなひとりによじ登る。  頭の上まで登っていくと、懸命《けんめい》に歌い続けている彼の髪をいきなり引っぱった。 「あ」  思わずリディアは声を出しかけて、口元を手で覆《おお》ったが、妖精にいたずらされた男性は、歌い続けながらも左右をしきりに気にしていた。周囲のコーラス仲間に不審《ふしん》な目でにらまれ、あわてて姿勢を正す。  何度も髪を引っぱられていた彼は、とうとう耳に噛《か》みつかれ、音程を崩したに違いない。リディアに聞き分けられるほどではなかったが、気づいた役者がにらみつけていた。  かわいそうに。あの人が悪いわけじゃないのに、あとでたっぷりしかられるのね。  同情を感じながら、けれどもどうして妖精は、あの人に悪さをするのだろうと不思議に思った。  たまたま、他の人より体が大きかったから、標的になっただけかもしれない。  それよりもリディアが気になったのは、公爵夫人の言っていた男性が彼だったら、ということだ。  案《あん》の定《じょう》、幕間《まくあい》になると、夫人がため息をついた。 「いちばん背の高いテノールですか?」  エドガーの言う人物は、まさしく妖精に襲われていた彼のことだ。 「ええ……、どうしたのかしら。努力家で、与えられた役はきちんとこなしてきたのよ」  悪気がない、はずの妖精のいたずら。  でもこれは、どうにも違うような気がする。 「誰だって、失敗することもありますよ」  エドガーがそう言って、夫人も「そうね」とつぶやいた。  妖精のことを言うべきか、リディアが迷っていると、カーテンの向こうで声がした。  夫人が「どうぞ」と呼びかけると、現れたのはついさっき舞台上にいた青年だった。  角張った顔に大きな目鼻立ちの彼は、太い眉《まゆ》もあいまって強面《こわもて》の印象だ。  しかしとてもおだやかな声で、肩幅の広い体を折り曲げつつ丁重《ていちょう》にあいさつをした。 「公爵《こうしゃく》夫人、今日はわざわざお越しいただきありがとうございます」  リディアが注目した耳たぶは、妖精に噛まれたせいか赤くなっている。 「すばらしい公演だわ、最後まで楽しませていただきます」 「あ……はい、ぜひともごゆっくりと……」  もうしわけなさそうに肩を落としている彼は、そんなことを言いに来たわけではないのだろう。  夫人が、エドガーとリディアに彼を紹介する間も、まるで上《うわ》の空《そら》だった。 「それにしてもヒュー、あなた、二幕の準備はいいの?」  ヒュー・ホガーズという名の、ピクシーにも似た赤毛の彼は、ますます恐縮《きょうしゅく》したように頭を下げた。 「……それが、今日のところははずされてしまいまして」 「まあ、そうだったの。でも気を落とさないで、チャンスはまたあるわ」 「舞台にネズミでもいた?」  とエドガーが言った。 「ネズミですか、ああそうかもしれません。でも私には何がなんだか」 「きみの失敗に気づいた観客は片手に満たないと思うよ。いつもどおり、明日のタイムズ紙で絶賛されれば劇団のみんなも忘れてくれる」  少し安心したように、彼は口元をゆるめた。しかしリディアには、どうしても気になる。あれはネズミではないからだ。 「あの、最近|花壇《かだん》や植え込みに入ったことあります?」  リディアの質問は、誰が聞いても唐突《とうとつ》すぎただろう。ヒューは怪訝《けげん》な顔をし、公爵夫人も不思議そうにリディアを見た。 「リディア、もしかして妖精の仕業《しわざ》だっていうのか?」 「ええと、まあその、妖精の姿が……。でもいたずらっていうよりは、仕返しみたいな意図《いと》があったのかしらって思って」 「花壇を荒らすと、妖精に仕返しされるの?」 「いえ、公爵夫人。そういう場所で、たまたま昼寝をしていた妖精を踏みつけるとか、運の悪いことが起こった場合だけです」  あらあらとつぶやきながら、夫人は歌手の方を見る。 「どうなの、ヒュー」  妖精などと言われて、彼はどう受けとめたものやら戸惑《とまど》いながらも、公爵夫人に問われては答えないわけにはいかないからだろう、必死で思いをめぐらせていた。 「いえ、そんな場所に入ったおぼえは……。花を、ちぎったりするのもいけないんでしょうか。その、マーガレットで花占いをしただけなんですけど」 「それだったら、関係なさそうですね。花を踏み荒らすなんてのは別ですけど、摘《つ》み取ったり花びらを取ったりしたくらいで、妖精は怒ったりしないわ」  それにしても、また花占いだ。はやっているのかしらとリディアは首を傾《かし》げる。  それにヒューは、花占いなんて言葉を口にすることすらありえないようなタイプに見えるのに、と失礼なことを思う。 「何を占ったんだ?」  エドガーが、まったく興味本位に口をはさんだ。花占いといえば、ほとんどが恋占いではないか。そこを聞き出そうとするエドガーは悪趣味にも、この若い歌手が想《おも》いを寄せているかもしれない女性に興味を持ったのだろう。 「いえあの、ちょっとしたことで」 「片想い?」 「ええ……」 「で、結果は?」 「はあ、……何度占ってもふられるとしか」 「よくあたる花売り娘をおしえてあげようか」 「知っています。でもいつも最悪の結果で」 「じゃあ、占いはともかく、そんなに脈がなさそうなのかい?」 「あの、私はたいてい、初対面の女性にこわがられてしまう方で、脈がどうとかいう以前の問題で……」 「あらヒュー、そんなふうに考えてはダメよ。あなたにはステキなところがいっぱいあるのだから」  黙っていたら、ちょっとこわそうに見えるヒューだが、本当は気のやさしい人なのだろう。  恐縮しつつ微笑《ほほえ》んだ。 「でも、彼女がどこの誰だかわからないってのは困るわよね。夜道だったし、暗くて顔もよく見えなかったし。若い女の子だってことはたしかだと思うけど」 「おや、公爵夫人も出会いの場にいらっしゃったわけですか」 「彼がね、酔っぱらいにからまれてた女の子を助けたの。でも、逆にひどく痛めつけられてしまって……。わたくしはたまたま馬車で通りかかったのだけど、女の子が泣きながら馬車を止めたの。何事かと思ったわ。そしたら路地に彼が倒れていて、女の子は何も告げずにいなくなってしまったのよ」 「それで彼女に恋を? 顔も知らない一目惚《ひとめぼ》れなんですね」 「彼女が、怪我《けが》の手当てをしてくれたのはぼんやりとおぼえているんです。自分のリボンをほどいて、包帯代わりに手に」  そのときのものだろう傷がうっすらと残る手を、上着の中に入れ、彼は大切そうに赤いリボンを取りだした。 「やさしい女性だ。ぜひ会ってみたいな」  まったく、エドガーときたらこれだから。 「とてもかわいい声のお嬢《じょう》さんだったわ」 「ほかに手がかりは? さがすのに僕も協力しますよ」 「まあ、心強い申し出だわよ、ヒュー。伯爵《はくしゃく》には女友達が多いもの」  屈託《くったく》なく、公爵夫人はエドガーに協力を求めようとするが、『女友達が多い』彼の下心を知ったら、目をかけている若者の想い人をさがさせるなんて危険なまねはしないだろう。  見つけたら、横から手を出そうとするにきまっている。  ヒューの方は、女の子が騒ぎそうなエドガーの容姿とタラシの気配《けはい》を感じとってか、曖昧《あいまい》な返事でお茶を濁《にご》した。  妖精のいたずらかもしれないという話題は、そこで流れてしまっていた。  もっともリディアも、ヒューがねらわれたのか、単に妖精の機嫌《きげん》が悪かっただけか、はかりかねていたし、不安をあおるのもよくないだろうと、それ以上話題にはしなかった。  観劇が終わる頃には、カーテンコールの熱気に包まれ、リディアも妖精のことは忘れかけていた。  フィナーレの余韻《よいん》に浸《ひた》りながら、オペラハウスを出た彼女は、耳に残るメロディを口ずさむ。 「楽しんでもらえてよかったよ」  最初は腹が立っていたけれど、もういいわとリディアは思う。オペラは、歌も音楽も舞台も、夢のようにすばらしかった。 「また来よう」  などとエドガーは能天気《のうてんき》に言う。「そうね」と答えてしまう自分にあきれるほどだ。  エドガーは、人を楽しませる方法を知っている。有無《うむ》を言わせない強引さと、利用されているという事実を忘れれば、彼に誘われて不愉快《ふゆかい》になることはほとんどない。  女性に関して、誠実なんて言葉とは無縁に見える彼だから、リディアは慎重《しんちょう》に距離を置いているつもりだけれど、こんなだからつい、強い態度で断れず、ずるずるつきあってしまうのかもしれない。  それでもリディアは、少しずつエドガーに気を許してしまいそうな自分を戒《いまし》める。 「でも、今日みたいにいきなりはいやよ」 「気をつけよう」  ぜんぜん気をつけるつもりなんかなさそうだと思いながら、ふと視線をあげた彼女は、劇場前に並ぶ馬車の屋根に、さっきの妖精の姿を見つけていた。  視線が合うと、一瞬驚いたように目を見開き、ぴょんと飛びおりて駆《か》け出していく。 「あいつ……、さっきのピクシー!」 「え?」  とっつかまえてやると、急いであとを追い、路地を奥へと入り込む。  しかしやがて、妖精の姿を見失う。市場の裏手らしいそのあたりには、荷箱や手押し車が所狭しと置かれていた。  この雑然とした場所で、小さな妖精を見つけるのは至難《しなん》の業《わざ》だろう。しかたなく引き返そうとすると、荷車の間から若い男が起きあがった。  あきらかに怒った様子で、こちらへ近づいてくる。 「痛ってえな、石なんか投げやがって」  そんなところで寝ていたのだから、酔っぱらいかごろつきだろうが、石を投げられたのは本当らしく、額《ひたい》に血がにじんでいた。 「……あたしじゃないわ」 「おまえしかいねえじゃねえかよ!」  まずいかも、とリディアは後ずさろうとする。しかし男は、彼女の腕をつかみ、乱暴に引き倒す。転んだリディアを見おろして、にやりと下品に笑った。 「治療費よこせよ、お嬢ちゃん」 「その程度の傷じゃ、説得力がないよ」  背後《はいご》から口をはさんだのはエドガーだった。 「なんだと? 痛い目にあいたいのか?」  男がナイフをちらつかせる。  が、彼が手を出すより先に、エドガーがステッキを振りあげた。  いかにもな紳士《しんし》がいきなり攻撃してくるなど予想外だったのか、男は殴《なぐ》られよろめいた。  さらにエドガーは、男につかみかかると、手首をひねりあげナイフをもぎ取る。  と思うと、奪ったナイフを突きつけながら楽しそうににんまり笑う。 「いくらほしいんだ? ちゃんと治療費に見合った怪我にしてやるよ」  単なるおどしにしても、こういうときエドガーは、ぞっとするほど冷酷《れいこく》な目をする。  そんなだから、相手が�紳士�なんかじゃないと気づいたのか、怯《おび》えた男はあっさり逃げ出した。 [#挿絵(img/mistletoe_091.jpg)入る] 「リディア、怪我《けが》はない?」  ナイフを溝《みぞ》に投げ捨てたエドガーは、もう何事もなかったかのような顔で振り返る。 「ええ……」  じつはこいつの方が、よほど危険なんだろうなと思いながらも、手を借りて立たせてもらう。  そのときリディアは、荷箱の陰《かげ》にまたピクシーの姿を見つけていた。両手でつかんでいた石ころを投げ出したピクシーも、男を追うようにあわてて逃げ出す。 「それにしてもどうしたんだ? 急に走り出したりして」 「あのピクシーよ。あたしを怖がらせようと、男に石を投げつけたんだわ」  そういえば昼間の蛇《へび》も、妖精が入ってきてるとニコが言っていたし、ひょっとするとさっきのピクシーの仕業《しわざ》だったのかもしれない。  だとするとますます、リディアはどうしてピクシーの標的にされるのかわからない。 「ピクシー?」 「ヒューさんにもいたずらしてた妖精よ。……もしかして、花占いと関係があるの?」  考え込みながら、リディアはつぶやく。 「そうよ、ヒューさんも同じ花売りからマーガレットを買って占ったと言ってたわ。てことは、よくあたる花占いって、いちいち妖精がアフターケアしてたのかも」 「つまり、占いどおりきみが僕に恋をするように、今の状況を妖精が画策《かくさく》したってこと?」 「ずいぶん乱暴なやり方だわ」  どのみち、ヒューへのいたずらは、恋をかなえるためではなさそうだ。  何度占ってもうまくいかないらしい彼の場合は、恋がかなわないようにと妖精が仕向けたのだろうか。  でも、いったいどうしてヒューにはそんな意地悪をするのだろうか。 「しまった、とすると僕は、危機に陥《おちい》ったきみを守って殴られるべきだったんじゃ? そしたらきみは僕にときめいたりしたかもしれないわけだ」  リディアが深刻に考えているのに、エドガーは能天気だ。 「ときめくわけないでしょ!」 「まあとりあえず、そこに座って」  なんで? と思ったが、エドガーが拾い上げた片方の靴は彼女のものだった。転んだ拍子《ひょうし》に脱げたらしいといまさら気づく。  建物の石段にリディアを座らせ、彼はリディアの前に身を屈《かが》めた。 「小石で切った? 血が出てる」 「あの、たいしたことないから」  かまわず彼は、足首を軽く持ちあげ、ハンカチを傷口に巻きつける。  落とした靴を履《は》かせてもらいながら、伏《ふ》せた金色のまつげを見おろしていると、不本意にもドキドキした。  人をからかうようなことを言わなければ、口説《くど》き魔でタラシでなければ、素直にステキだと思えなくもない。  でもそれじゃあ、エドガーじゃないかも。 「シンデレラのワンシーンみたいだね。拾った靴の持ち主を見つける瞬間だ」  そう、隙《すき》あらばこういうことを言い出すのがエドガーだ。 「きみこそ、僕の探し求めた姫君」 「……変な小芝居はやめて」 「のってくれないのか」  王子さまと呼べとでも?  そんなこっぱずかしい芝居、リディアには無理だ。  くす、と笑いながら、ひざまずいている彼に見あげられるというのは奇妙な気分だった。  本当に自分がお姫さまにでもなったかのような。彼が見つめているのは、いつもの自分ではなくて、魔法がかかったとくべつな娘に思えてくる。  でも、こいつのあまい言葉は本気なんかじゃないのだ。のせられたら、とんでもない目にあうのはわかりきっている。 「オペラのシンデレラには、ガラスの靴もカボチャの馬車もなかったわ」  リディアはどうにか、うわついた気分を追い払おうとそう言った。  そう、オペラの王子は、靴ではなく片方の腕輪を目印に、恋した娘をさがすのだ。  それはシンデレラがどこの誰でも、どんな姿をしていても、惑《まど》わされずに見つけだすという約束だった。  魔法の力を借りない、純粋で誠実なふたりの思いが、運命の恋を成就《じょうじゅ》させたシンデレラ物語だった。 「魔法に惑わされるなんて、よくないわ。そうでしょう? 花占いにいたずらした妖精に、恋心をあやつられるなんてあたしはいや」  強い口調《くちょう》になってしまったのは、この場の雰囲気《ふんいき》にのまれまいとしてだ。 「そうよ、ヒューさんの恋も妖精がじゃましてるんだとしたら、ほうってはおけないわ」  リディアはフェアリードクターだ。妖精のすることで困っている人がいるなら力になるのが仕事だ。 「僕たちのことはそっちのけ?」 「とにかく、あの妖精を見つけてつかまえなきゃ……」  しかし妖精はすばしっこいし、簡単につかまえられるものじゃない。  妖精のこととなると、それだけで頭がいっぱいになるリディアは、もうこの場のあまい雰囲気など忘れて、すっかり考え込んだ。  エドガーはあきらめたように立ちあがり、何か見つけたらしくふと視線をあげた。 「おや、ニコじゃないか」  煉瓦塀《れんがべい》の上を、灰色の猫が二本足で歩いていた。  ふだん人目につくようなところでは、ふつうの猫のふりをしているのに、ほろ酔い気分なのか上機嫌《じょうきげん》な妖精猫は、こちらに気づいて立ち止まると、塀の上に腰かけて器用に後ろ足を組んだ。 「きみの猫は変わってるよね」  彼は、ニコがたまに二本足で歩いても、そういう芸をする猫だと思っているらしい。 「ようリディア、いい月夜だな」  猫が鳴いたようにしかエドガーには聞こえなかっただろうが、リディアは、ときどき猫のふりを忘れるニコにため息をおぼえた。  どこかのパブで、妖精仲間とでも飲んできたのだろうけれど、しゃべる猫だと気づかれて、大騒ぎになって見せ物小屋に売られても知らないから、と思う。  お酒好きのニコは、ふだん身だしなみにこだわる紳士《しんし》を気取っているくせに、くたびれたオヤジみたいに曲がったネクタイも平気で大あくびをする。  いろいろ考えたいことのあるリディアは、酔っぱらいの相手なんかしてられないわと立ちあがった。 「エドガー、帰りましょ」 「彼は? 連れて帰らなくていいのか?」 「勝手に戻ってくるわ」 「おいリディア、そういや昼間、伯爵邸《はくしゃくてい》に入ってきてた奴《やつ》を見かけた、ありゃピクシーだ」  リディアは思わず立ち止まった。 「ピクシー?」 「ああ。パブにいたホブゴブリンの話じゃ、奴は花売り娘に恋してるらしいぞ。花を買った男がその娘に色目を使ったりすると、別の女とくっつけようといろいろ画策するらしい」  てことはエドガー、花売り娘を口説いたわね。ちらりとリディアは彼を見る。  そのせいでリディアが妖精の標的になったのなら、まったくエドガーのせいではないか。 「マーガレットの花にくっついていって、ほかにも好き放題やってるってさ。さっきもあっちに、花売り娘と奴がいたけど、花占いしてる娘のマーガレット、勝手に花びらちぎって占いの結果を変えてやがった」 「そ、そいつ! どこにいたの?」  ニコが指差す方へ、リディアは急ぎ歩き出す。エドガーももちろんついてきた。 「リディア、どこへ行くんだ?」 「ピクシーを見つけるの。やっぱりあいつ、花占いの結果を好き勝手に変えてたのよ。あなたのも、ヒューさんのも」 「きみの、仕事にかける情熱の半分でも、僕に向けてくれたらなあ」  それどころではないから、リディアは聞いていなかった。 「あれだわ」  表通りに出る手前で立ち止まる。  オペラハウスから出てきた客たちも、あらかた立ち去っていたそこには、もう人影は少なく、列柱《れっちゅう》の礎《いしずえ》に腰かけた少女はすぐに目についた。  マーガレットの花かごをかたわらに置いて、花売り娘は占いを続けているらしく、足元には白い花びらがたくさん散らばっていた。  ピクシーは、少女のひざの上にいた。  もちろん、彼女には見えていないだろう。  勝手に、彼女が占っているマーガレットの花びらをむしり取り、そして少女は、最後の花びらを数えながら落胆《らくたん》のため息をつくのだ。 「あの娘《こ》が、花占いがあたるって評判の花売りね?」 「そうだよ。彼女の花に妖精が?」 「ええ。妖精は彼女が好きだからって、自分の都合のいいように恋占いの結果を変えてるんだわ。でもわからないのは、どうしてヒューさんの花占いには、悪い結果ばかり出すのかしらってことよね」 「それは彼が、あの花売り娘と相愛になれるかどうかって占うからじゃないかな」 「えっ? まさか彼の片想《かたおも》いの相手って……」 「あの子、だと思うよ」 「ほ、ほんとなの? でも顔も見てないって。それにどうしてあなたが知ってるのよ」 「ヒューが持ってたあの赤いリボンと同じものを、彼女がしてたんだ。帽子が風で飛んで、髪をふたつに結んでるのを見たんだけど、片方のリボンがなくて麻《あさ》ひもになってた。だからヒューの想い人は彼女だって、オペラハウスでリボンを見せられたときすぐにわかった」 「じゃ、どうしてリボンのこと、ヒューさんに教えてあげないのよ!」 「他人の恋のすれ違いっておもしろいじゃないか」  ……こいつときたら。 「というのは冗談」 「本音入ってたわよ」  そう? とエドガーは肩をすくめる。 「どのみち、ヒューはもう彼女だって気づいていると思ったんだ。だって彼は歌手だよ。顔はおぼえてなくても、声はおぼえてるんじゃ? それに花占いで、何度やってもふられると出たと。ふられるってことは、特定の相手について占ってるんじゃないのか?」 「じゃあ、どうして名乗り出ないの?」 「反応が怖いのさ。本人、女の子にいい印象を持たれないって自覚してたし、占いの結果はまるでだめだし、勇気がないんだよ」 「そう……。どのみち彼女の方も、あんなに悩みながら花占いしてるなんて、想う人がいるのよね」 「ヒューかもしれないけどね」  考えもしなかったことを言われ、リディアはエドガーを見あげた。  でもたしかに、酔っぱらいにからまれていたところを身の危険も顧《かえり》みずに助けてくれた人を、好きになっても不思議じゃない。 「ふたり、相思相愛《そうしそうあい》かもしれないってこと? あ、でも彼女は、ヒューさんがどこの誰か、顔も知らないわけよね」 「相愛かどうかは憶測《おくそく》だけど、あの子も、しょっちゅう花を買いに来るヒューが、助けてくれた男かもしれないって気づいてると思う。だって彼の手にはそのときできた傷があっただろ。彼女がリボンを巻きつけた傷なんだから、もしかしたらと思うはずだ」 「気づいて黙ってるなんて、やっぱり彼女の方も、名乗り出る勇気がないのかしら」  ちっとも意識していないなら、自分を助けてくれた人かどうか確かめて、お礼を言うとかするはずではないか? 「片方だけになった赤いリボンを結んだまま、なのに帽子で隠したままっていうのも、自分のことに気づいてほしいけど不安だって感じがしないでもない」  もしそうなら、どちらかが少しだけ勇気を出せば、かなう恋かもしれないではないか。  そうだ。どちらも妖精にじゃまされて、自信が持てなくなっているだけだ。だったらリディアは、フェアリードクターとしてどうにかしなければならない。 「とにかく、妖精にいたずらをやめさせなきゃ」  リディアは通りへ出ていくと、花売り娘に近づいていった。ピクシーはまたさっと姿を消したが、かまわず娘に声をかける。 「ねえあなた、その占いを信じない方がいいわ。妖精がいたずらしてるのよ」  妖精? と彼女は怪訝《けげん》な顔をした。 「ええと、何度やっても同じ結果が出るでしょ? おかしいと思わない?」 「……あんた誰だよ」 「あたしはフェアリードクターよ。あなた、ピクシーって妖精につきまとわれてるわ。妖精はあなたが好きみたいだけど、このままじゃ誰に恋しても、妖精にじゃまされてうまくいかないわよ」 「フェアリードクター?」 「妖精の専門家なんだ。彼女には妖精が見えるし、扱い方もわかるんだよ」  後ろから口を出したのはエドガーだ。 「あ、昼間の旦那《サー》……。そうだ、おつりを忘れてたんだ」 「いいよサラ、花占いのおかげで、彼女とステキな一日を過ごせてるから」  サラというらしい花売り娘は、不思議そうにリディアを見た。 「はーん、まあまあべっぴんさんなのに頭が弱いんだ。そりゃ、想いを伝えるのも大変だね、サー」 「ちょっと、あたしは頭が弱くなんかないわ! あなたを助けようと思って声をかけたのよ。ピクシーなら、追い払うのは難しくないわ。あなたが身につけているものを妖精にあげればいいの」  しかし彼女は、不機嫌《ふきげん》そうに立ちあがる。 「あたしのこと、からかってんの?」 「違うわ、本当なのよ」 「だとしても、よけいなお世話だよ。あたしのこと気に入ってる妖精がいるなら、そいつが花占いであきらめろって言ってるってことだろ。どのみちあきらめなきゃならないなら、占いでだめだって出続けてる方がいいよ」 「ちょっと、彼の気持ちを確かめないまま、あきらめるっていうの?」  リディアは、サラの花かごをつかんで引き止める。 「だから、よけいなお世話だっての。あたしもう、花売りやめて田舎《いなか》に帰るつもりなんだ」 「へえ、あきらめるんだ。じゃあさ、僕が誘ってもいい?」 「エドガー、何言ってるのよ!」 「旦那はこのフェアリーなんとかさんがいいんだろ?」 「うん、でもちっとも振り向いてもらえないから、きみとつきあえば妬《や》いてくれるかもしれない」 「妬くわけないでしょ!」 「あたしは当て馬かい」  しかしかまわず、エドガーはサラを口説《くど》きにかかる。 「サラ、きみの好きな男が、とっととつかまえなかったことを後悔するようなレディになって、オペラハウスへ行かないか」  え……。こいつ何考えてんの?  さすがにリディアは、エドガーの上着を引っぱってサラから引き離した。 「ヒューさんに見せつけるつもり? そんなことしたらダメになっちゃうじゃない」 「あ、さっそく妬いてくれた?」 「違うわよ!」 「どうせかなわない恋だとヒューは思ってるんだろ。だったらべつにいいじゃないか」 「だからそれは妖精のせいで。あなたがますます彼の自信をなくさせてどうするのよ」  ただでさえ、自信を持てない彼だ。エドガーの連れている女の子が片想いの相手だと知れば、決定的に打ちのめされるのではないか。 「ヒューに自信がないのは、妖精でも僕のせいでもないよ」  ああいえばこういうのだから。 「オペラハウス? 中へ入れるの?」  急に割り込んできたサラは、やけに乗り気だった。 「もちろん」  エドガーはにっこりと振り返る。 「なら、いっしょに行ってやってもいいよ」 「決まりだ」  信じられない。もはや妖精のいたずらをやめさせるという問題ではない。  こいつ、妖精よりずっとたちが悪いわ。  サラは一度でいいから、ヒューの舞台を見てみたいのではないのか。  そこにつけこむなんてと憤《いきどお》りをおぼえながら、リディアは頭をかかえた。      *  夜も更《ふ》けてきた頃、オペラハウスの通用口から人影が出ていくのを眺《なが》めながら、サラは街灯の下に立っていた。 「お嬢《じょう》さん、花はまだ残ってるかな」  いつもの彼の声に、ドキドキしながら振り返る。 「あるよ」と差し出したマーガレットを受け取るのは、可憐《かれん》な白い花には不釣《ふつ》り合《あ》いにも見える強面《こわもて》の青年だ。  でも、笑うとけっこうかわいいし、声がとてもやさしい。  ありがとう、おやすみ、と言葉をかわすだけの間柄《あいだがら》。しかし今夜は、サラは思い切ってひとつだけ問いかけてみた。 「その花、恋人へのおみやげ?」 「いや、そんなんじゃないよ。ひとり暮らしだから、花でも連れて帰ろうかと思って」 「そう……なんだ」  それきり、サラはどう言っていいかわからなくなり、彼の方も黙り込んでしまう。こんな質問をしたことを後悔しながら、彼女は立ち去ろうとした。 「じゃ、おやすみ……」 「きみは、夜でも帽子を取らないんだね」  唐突《とうとつ》な言葉だった。サラは一瞬、彼がこの帽子の下に赤いリボンがあるかどうか気にしているのかと考えていた。  でも、そんなはずはない。だったらそう訊《たず》ねればいいだけのことだ。  彼はサラのことになど気づいていないし、彼女があのときの少女だと知っても、たいした関心はないだろう。  華やかな貴婦人たちと、日ごろ接しているだろうから。 「か、髪の毛が、ちゃんと結《ゆ》ってないからさ」 「……ごめん、変なこと訊《き》いたね」 「べつに、気にしてないけど」 「……それじゃ」  おやすみ、と彼の方も気まずそうに、足早に去っていった。  サラは大きくため息をついた。  どうせもう、会えなくなる。そのうち彼のことは忘れるだろう。  最後に、オペラハウスの舞台で歌う彼を見られるなら、自分には最高の幸運だと、立派な建物を見あげながら自分に言い聞かせた。      *  本当は相思相愛《そうしそうあい》かもしれないのに、胸に秘めたままあきらめてしまうなんて。  それもエドガーの気まぐれにかきまわされるのを、黙って見ているわけにはいかないとリディアは思う。  しかし、どうすればヒュー・ホガーズは、エドガーのやることに惑《まど》わされず、サラに想いを告げる気になるだろう。  彼女の方もヒューのことを好きかもしれない、というのはエドガーの憶測《おくそく》にすぎないし、リディアは彼に、そんな軽はずみなことを言えるような間柄ではない。  せめてヒューが、妖精《ようせい》がいたずらしている花占いなど信じず、自信を持ってくれればいい。  そう考えたリディアは、翌日、彼に会いに行くことにした。  稽古《けいこ》の合間に外へ出てきてくれたヒューに、花売り娘の花には妖精がついていること、わざと悪い結果ばかり出るように妖精がいたずらしていたことを話す。  また妖精などと聞かされ、不審《ふしん》な顔をされたが、公爵《こうしゃく》夫人の連れだったリディアに、失礼なことはしまいと思っているのか、ヒューはいちおう話を聞いてくれていた。  妖精話をまともにすれば、変人だと思われる。リディアには慣れたことだ。どう思われようと、必要なら話すしかない。 「それでお嬢さん、私にどうしろとおっしゃるんです?」 「あなたの恋がかなわないと決めつけるのは早計《そうけい》だと思うんです。花占いに頼らず……、いえ、どうしても占いが気になるなら、別のマーガレットで占ってみてください。妖精がいない花なら、悪い結果ばかりが出るはずありませんから」 「別の花? あの花売り娘から買ったものではなく、ということですか」 「ええ。ここにもあります」  リディアは、別の花売りから買っておいたマーガレットの一束《ひとたば》を差し出した。今ここにあのピクシーがいないことは間違いない。  だったら、悪い結果ばかり出るということはありえない。  黙ったまま花を受け取った彼は、一本抜き取って、好き、きらい、と数えはじめた。 「好き」と最後の一枚を数え終えたとき、リディアはほっと胸をなで下ろした。 「ほら、やっぱり妖精のいたずらに惑わされちゃだめなんです」  しかし彼は、浮かない顔のままだ。 「知ってますかお嬢さん、マーガレットの花びらは、奇数枚の方が圧倒的に多いんだそうですよ。�好き�からはじめたら、ほとんどの場合�好き�で終わるはずなんです」  え、とリディアは指折り数える。なるほど、花びらの数が奇数なら�好き�、偶数なら�きらい�になる。好きかきらいか占うなら、ほとんどの人が�好き�からはじめるだろう。 「だから、私はいつもは�きらい�からはじめる……。結果が悪いのは妖精のせいじゃありません。いまだに偶数のマーガレットに出会えないだけで、それが四つ葉のクローバーのように、私に幸運をもたらしてくれるのではないかと、勝手に考えているだけなんです」  ヒューはむしろ、占いの結果がよくないということに安堵《あんど》しているのだとリディアは気がついた。  歌手として役を競い合う毎日は、恋どころではないのだろう。そのうえ彼にとって、初対面の女性に怖がられるという自分の方から想《おも》いを告げるなんて、考えられないことなのだ。  花占いの悪い結果は、どうやって気持ちを告げようとか、ふられるかもしれないとか、それ以上悩むことから彼を遠ざけている。  妖精のいたずらは、彼自身の後ろ向きな気持ちをよりかたくなにしてしまったのだろうか。  もしかしたら、とっくに偶数のマーガレットに出会っていたかもしれないのに。 「でも、偶数のマーガレットが見つかったとき、彼女がいなくなっていたら、幸運もなにもないじゃない……」 「いなくなる?」 「あ、いえ、……もしもの話ですけど」  それ以上何も言えなくなったリディアが口をつぐむと、稽古の途中だからとヒューは帰っていった。 「リディアさん、どうかなさったの?」  ひとりで突っ立っていると、馬車の窓から公爵夫人が顔を覗《のぞ》かせた。 「通りから、あなたとヒューの姿が見えたものだから」  促《うなが》され、公爵夫人の馬車に乗り込んだリディアは、ヒューの想い人を好きらしい妖精が、彼の恋をじゃましていると話した。  それなのに彼は、自分の恋がかなわないと思い込んでいる。マーガレットは花びらが奇数枚のものが多いからと、わざと悪い結果が出るよう自分から後ろ向きになっている。  ため息まじりにそう吐《は》き出すと、公爵夫人はやさしい笑みを浮かべた。 「きっかけは、占いでも妖精でも他人の言葉でもないのよ。結局人は、自分が決めたようにしかできないのだから」 「それじゃあ、彼はこのままあきらめてしまうんでしょうか」  公爵夫人は、遠く空の方を見やった。 「花占いで結婚相手を決めたって、お話をしたでしょう? あのときね、妖精のいたずらで出た結果は、何度占っても、もうひとりの軍人の彼だったのよ」 「え……、そ、そうなんですか? じゃあどうして、公爵とご結婚を」 「占っているうちにわかったの。結果が主人になることを、わたくしは望んでいるって」  占いにも妖精にも、本当の気持ちは変えられない。  だったらリディアはどうすればいいのだろう。何もできないということなのだろうか。  妖精がじゃまをしているのはたしかなのに。 「フェアリードクターは、妖精のことで困っている人を助けるのが仕事なんですってね。リディアさん、それなら恋の悩みをあなたが解決できなくても、落ちこむことはないわ。なりゆきを見守ればいいのよ」 「なりゆきを……?」  ふふ、とやさしげに老婦人は目を細めた。 「あさって、またヒューの出番があるの。ご一緒にいかが?」  公爵夫人に誘われて、断れるほどリディアは世間慣れしていない。  それにその日はたしか、エドガーがサラを連れてオペラハウスへ行くはずだ。  せめて、恋のじゃまをする奴《やつ》ら、エドガーと妖精のことを見張っててやろうじゃないの。  あの妖精が、またヒューの舞台をじゃましないように、そしてサラがエドガーの毒牙《どくが》にかかったりしないように。 「恐れ入ります。ぜひご一緒に」  リディアは意気込んでそう答えた。  その日、公爵《こうしゃく》夫人に頼んで、リディアは妖精よけのサンザシの実をヒューに渡してもらった。  舞台がうまくいくおまもりだからと、公演が終わるまで身につけておくように公爵夫人は話してくれたようだから、妖精は彼に悪さはできないだろう。  それはいいとして、とリディアは、舞台の両側に並ぶボックス席に視線を動かす。  まだエドガーたちの姿は見えないが、そろそろ席はうまりつつある。 「伯爵《はくしゃく》のことなら、心配しなくても大丈夫よ」  え、とリディアは、夫人の方に振り返った。  エドガーの、タラシだという不名誉な性分を隠しておいた方がいいだろうと気を遣《つか》ったリディアは、彼がヒューの想《おも》い人を誘ったなどとは話していない。  なのに夫人は、何もかも知っているようだ。 「今日のオペラ、あなたを連れてきてくれって、彼に頼まれてたの」 「エドガーにですか? で、でも、彼は……」 「ヒューが助けた女の子を連れてくるんでしょう? あなたが伯爵のこと、軽薄《けいはく》な女たらしだと思ってるなら、見直してほしいそうよ」  軽薄な女たらしなのは、歴然とした事実だ。 「見直すって、ヒューさんの好きな女性を口説《くど》こうとする奴なんて、どこをどう見直せばいいんです? エドガーは、ちょっとかわいい女の子と見ると、着飾らせて連れ歩きたくなるんですよ」  リディアはむっつりと言う。 「あなたを連れてきたのも、彼のそういう趣味?」  公爵夫人はくすくす笑う。 「あたしは、か……かわいくはないですけど、手近にいるからだわ、きっと」 「そうかしら。あなたがいなければ、ヒューの好きな女の子だろうとかまわず口説いたかもしれないけど」  彼女が視線を向けたボックス席に、見慣れた金髪の青年が現れた。  グレーのイブニングコートを隙《すき》なく着こなしたエドガーは、こんなに人のいる場所でもすぐに目につく。当然、彼の隣にいる女性も目につく。  赤いドレスを着たサラは、快活そうな彼女らしさを失うことなく、それでいて品よく魅力的だった。  自分がエスコートする以上、最高のレディに見せることができると、日ごろから自信たっぷりのエドガーだけあって、サラが下町の花売り娘だなどと、ここにいる誰もが気づかないだろう。  離れたところから眺《なが》めていると、人の目がサラに注がれているのがよくわかる。  よくもまあこれまで、平気でエドガーの隣にいられたものだとリディアは思う。と同時に、サラのことがうらやましくもなる。  嫉妬《しっと》、というものではたぶんないけれど。 「ほら、彼女の髪飾りをごらんなさい」  公爵夫人に言われ、注目すれば、赤いリボンがサラの艶《つや》やかな黒髪を飾っていた。髪飾りはそれだけで、質素《しっそ》すぎるような気もしたが、かえって目につくだろう。  これまで彼女が、ヒューの目にさらすことができずに帽子で隠していたリボンだ。エドガーがうまくおだてて、彼女にあのリボンをつけさせたのだろうけれど、それだけでは、彼がサラとヒューのためを考えているとは認められないわとリディアは思う。  ヒューは彼女の、赤いリボンに気づくかもしれないが、そんなことでこの恋に前向きになれるだろうか。  あんなにかたくなに、思いを遠ざけようとしていたのに。 「さあ、リディアさん。運命の恋人たちの歌に耳を傾けましょう」  リディアの気がかりをよそに、オペラ『チェネレントラ』ははじまった。  ふたりの姉に、メイドのように働かされるシンデレラは、偶然王子と出会って恋におちる。しかしまだ、彼女は彼を王子とは知らないまま。ただの従者だと思い込む。 [#挿絵(img/mistletoe_115.jpg)入る]  そういえば、サラとヒューも出会ったとき、お互いのことなど知りようもない状況だった。  なんだか、あのふたりと境遇《きょうぐう》が似ている。  やがて、合唱のパートにヒューが現れた。  今日は妖精のいたずらもないまま、順調に舞台は進んでいく。  ヒューも調子よさそうに、そして楽しそうに歌う。  サラが見入っている。ヒューもたぶん気づいている。ちらちらと、彼女のいるボックス席の方に首を向ける。  そして場面は宮廷《きゅうてい》だ。  美しく着飾って現れたシンデレラ。ふたりの姉も、まさかあの義妹《いもうと》だとは思わない。  ニセの王子に引き止められたシンデレラは、従者が好きなのだとうち明ける。そこに現れた従者は、もちろん本物の王子だ。彼女は腕輪を片方はずす。  これとおなじ腕輪をした、本当のわたしを見つけてください。それでも好きでいてくださるなら、あなたのものになりましょう。  その歌を聴きながら、エドガーがサラに何かささやいた。  サラはそっと、赤いリボンに手を触れた。  あのリボンは、シンデレラの腕輪と同じ。ガラスの靴と同じ。  お互いを何も知らないふたりが、もういちどめぐり会うための運命の糸、さがし出してほしいという暗黙の願いだ。  リディアが気づくのと同時に、サラも、ヒューも気づいたのではないだろうか。  そのときこの劇場に響く歌声は、王子の決意を歌うアリア。 �きっとさがし出してみせる�  ほんの一瞬、視線が交わったようにも思えたサラとヒューは、お互いの気持ちを感じ取ることができただろうか。  そうだったらいいと願いながら、エドガーが何を考えていたのか、ようやくリディアにもわかってきていた。  彼はあのふたりを、シンデレラの物語に引きずり込んだのだ。心をゆさぶる歌の響きに共鳴し、ふたりはシンデレラと王子になった。  この瞬間に、もうひとつの、恋の物語がはじまったはずだった。  しかし、フィナーレのさなか、サラは急に立ちあがった。帰ると言って、ボックス席を出ていく。  エドガーはあとを追った。 「どうしたんだ? ここにいないと、王子さまが迎えに来られないよ」  どういう意味? という顔でサラは振り返ったが、また足早に歩き出す。 「いいんだ」  止めるのも聞かず、さっさと劇場を出た。  さらに追いかけ、通りを横切ったところでエドガーは彼女の行く手を阻《はば》む。 「もし彼が来なかったらって、不安に思ってる? でももし、彼が来ていたら、きみがいなくて傷つくと思うよ」 「サー、あんただって傷ついたり悩んだりするのがいやだから、軽い気持ちで曖昧《あいまい》にしか彼女を口説《くど》けないんだろ」 「……曖昧? いつも思ったことをはっきり伝えてるよ」 「あたしをほめるのと同じ軽さで、彼女に妬《や》いてほしいなんて、本気だとは思えない」 「僕のことはどうでもいい。きみの話をしてるんだ」 「説得力ないってことさ」 「きみも頑固《がんこ》だね」 「いいから、そこどいてよ」 「いやだ。せっかく、彼女が僕のことを見直してくれるかもしれない機会なのに」 「そんなの知らないよ」 「エドガー!」  そのとき、悲鳴にも似た声で彼を呼んだのはリディアだった。  ふたりが席からいなくなって、気になって外へ出てきたリディアは、彼らのあとをつけているピクシーに気づいていた。  またあいつが何かしでかすかもしれないと、そっと見守っていたら、通りに並んだ馬車に近づいていった妖精が、馬の手綱《たづな》をはずすのが見えた。  その先に、エドガーとサラの姿がある。  ピクシーが馬のたてがみを力いっぱい引っぱったとき、リディアは声をあげたがもう遅かった。  驚いた馬が暴走する。 「エドガー、あぶない!」  思わずリディアは、通りに飛び出す。  彼のもとへ駆《か》け寄ろうとしながら、そのとき、ピクシーを乗せたままの馬が、まっすぐこちらへ向かってくるのに気がついた。  ああそうだ。これまでも妖精は、エドガーをサラに近づけまいとして、リディアにいたずらをしかけていたのだった。  今も、リディアが危険な目に遭《あ》えば、エドガーはサラを口説いているどころではなくなるだろうと考えている。最初からピクシーは、リディアがつけてくるのを知っていて……。  バカなピクシー。こんなことエドガーのダメージにはならないわよと思いながら、フェアリードクターのくせに、いつも判断のツメがあまいのだからと落ちこむ。  でも自業自得《じごうじとく》、とわずかな間にいろいろなことを考え、馬がせまってくるのを眺《なが》めながら、足は一歩も動かなかった。  と、急にリディアは肩をつかまれた。  かかえ込むようにぐいと引かれ、街灯の柱に押しつけられる。  すぐそばをかすめるように馬が駆け抜け、やがて静かになっても、リディアはまだしばらく、自分がどうなったのかよくわかっていなかった。 「助かったね」  耳元で声がして、ようやく、エドガーに助けられたのだと気づく。  腕にしがみついたまま、離れなくちゃと思いながら、けれどもエドガーが安心させるように肩を抱いていてくれたので、そのままじっとしていた。  彼に接近されれば、いつもは警戒《けいかい》と緊張を強《し》いられるリディアだが、今はどういうわけか、寄りかかっているだけで落ち着けた。  もう少しだけ、こうしていたいなんてどうかしている。  ひとりでは立っていられないくらい、足が震《ふる》えているからだと思うことにする。 「……あぶないのは、あたしの方だったわ」 「でもね、きみが本気で僕を心配してくれたから、とっさに飛び出せて間に合ったんだ」 「あ、あれは、何も考えられなくて……」  サラが近づいてくるのに気づき、リディアはそのまま少し顔をあげた。  サラはエドガーに言った。 「前言撤回《ぜんげんてっかい》するよ。サー、あんた言葉は軽いけど、ちゃんと彼女を大事に思ってるんだね。でもって彼女も、そうわかってる」  そんなんじゃないわ、ただのなりゆき。と思いながらも、ドキドキして恥ずかしくなって、どうにか足に力を入れ、エドガーから手を離す。 「なら、僕の忠告は説得力がなくもない?」  少し悩んだように、サラは首を傾《かし》げた。 「……考えるよりも先に飛び出していけるなんて、あんたたちがうらやましいよ」  そして、微笑《ほほえ》む。 「あたし、酔っぱらいにからまれてたところを彼に助けられたとき、怖くてずっと物陰《ものかげ》に隠れてて、彼が散々|殴《なぐ》られてても何もできなかったんだ。だから、さがしてほしいなんて思う資格ないと……。でも、だったらあたしが逃げるのもずるいよね。彼が、さがしてくれてもくれなくても……」  カーテンコールも終わったのか、オペラハウスの表通りには、人が出てきているようだった。  サラは、髪に結んだ赤いリボンをほどき、リディアに差し出した。 「妖精のこと、あんたに頼めばいい? 身につけるものがあればいいんだろ?」 「妖精を、信じてくれるの?」  サラは神妙《しんみょう》に頷《うなず》く。 「見たことはないけど、ひとりで働きに出てきて淋《さび》しかったとき、何かがそばにいるって感じはずっとあったんだ。あんたに指摘されて、やっぱりいたんだって、ちょっとうれしかったけど、自分でも信じてたのかなって意外で……。でも、本当にいてくれたなら、妖精には感謝してるし、もう大丈夫だから自分の国へ帰ってほしい」  リディアがリボンを受け取ると、ヒューに会う決心をしたサラは、オペラハウスに向かって歩き出す。  そのとき、どこからか歌声が聞こえてきた。  さっき劇場でも聞いた歌だった。 「あれは王子のアリア�きっとさがし出してみせる�だよ」  ヒューの声だ。けれど今は、シンデレラではなくサラを思って歌うアリアが、夜空に響きわたっていた。  人込みの中、どこにいるのかわからないサラに、想いを伝えようとする渾身《こんしん》の歌声だ。  引き寄せられるように、サラは駆け出していった。 「すばらしい愛の告白だ。くやしいけど、僕にはとうていまねできない」  エドガーは上機嫌《じょうきげん》に微笑んだ。 「ステキな王子さまだわ」  歌声に耳を傾けながら、リディアも微笑む。 「シンデレラの王子というよりは、美女と野獣《やじゅう》かもしれないけど」  ハッピーエンドには違いない。  やがてふと歌が途切《とぎ》れたのは、彼がサラを見つけたのだろうか。  きっともう、言葉も何もいらないだろう。  花占いに頼ることもなくなる。 「さて、帰ろうか。このフィナーレにカーテンコールは野暮《やぼ》というものだろう?」  そうね、とリディアも頷いた。 「ところでリディア、僕のこと見直してくれた?」 「サラにおもいきりふられたあなたを、どうやって見直せばいいの?」  つい皮肉な口調《くちょう》になってしまったのは、たった今彼にあまえてしまった恥ずかしさを紛《まぎ》らすためだったかもしれない。 「じゃあかわいそうな僕をなぐさめてくれ」  しかしエドガーが、リディアの拒否など気にしないのは毎度のことだ。  ちっともかわいそうじゃないじゃない。と思いながらも、本当いうと、少しだけど見直してもいる。  フェアリードクターのリディアは、妖精のことならわかるけれど、人付き合いが少なかったから、恋には少々|疎《うと》かった。  妖精のいたずらを遠ざけさえすればうまくいくなんて、単純に考えていた。  けれど、人の気持ちはそんなことでは動かせないと知っていたエドガーのことを、見直している。  女たらしの才能も、人の役に立つのかと感心し、そういう軽薄《けいはく》な部分も、たぶん彼の表面にすぎないのだと思った。 「……どうなぐさめてほしいの?」 「キスしよう」 「殴るわよ」 [#挿絵(img/mistletoe_125.jpg)入る]  結局いつもどおり、彼はリディアの反応をおもしろがっている。でもま、いいか。 「そうだ、まだ仕事が残ってたんだわ」  リボンを手に、リディアは立ち止まった。  そしてあたりを見回す。 「ピクシー、いるんでしょう? あなたにサラからの贈り物よ」  街灯のそばの木に、小さな赤毛が姿を現す。  リディアが近づいていっても、妖精はもう逃げだしはしなかった。  少し淋しそうに小首を傾《かし》げながら、サラの赤いリボンを受け取り、そして消えた。 「終わったの?」 「ええ、もうあの妖精が、花占いにいたずらすることはないわ」 「じゃあさ、手をつなごう」 「は、何の話?」 「きみがなぐさめてくれるって話」  その話こそ、終わったんじゃなかったの?  しかしかまわず、エドガーはリディアの手を取って歩き出す。  まあいいか、とすでにエドガーに対してあまくなっていたリディアは、そう思った。  ちょっとでも気を許すと、とことんそこにつけ込む奴《やつ》だということは忘れていた。      * * *  翌日、アシェンバート伯爵邸《はくしゃくてい》にリディアが出勤すると、間《ま》もなく仕事部屋にエドガーがやってきた。 「リディア、テムズ河へボートレースを見に行こう」  と、いつものごとく能天気《のうてんき》に誘う。 「エドガー、あたしは仕事をしに来てるって何度言ったらわかるの?」 「たまには息抜きも必要だろ」 「……たまには仕事をさせてよ!」  リディアは一気に憂鬱《ゆううつ》になった。が、そんなことくらいでエドガーがひるむはずもない。 「だったら、花で占ってみようか?」 「また? もう、魔法の花はないのよ」 「なおさら、公平に決められる」  部屋に飾られている花瓶《かびん》から、彼はマーガレットを抜き取った。 「今日一日、きみが僕の言うとおりにするか、それとも僕がきみの言うとおりにするか。どう?」  やけに自信たっぷりに、エドガーがにやりと笑った。  はっとリディアは思い出した。マーガレットの花びらは、ほとんど奇数枚だとヒューが言っていたではないか。エドガーもそれを知っているのでは? 「いいわよ、そのかわりあたしが占うわ!」  意外とあっさり、エドガーは「どうぞ」とマーガレットを差し出した。  リディアは慎重《しんちょう》に、「あたしの言うとおり」からはじめる。  しかし最後の一枚は、 「……あなたの言うとおり?」  えっ、なんで偶数枚? 「エドガー、この花に細工したでしょ!」 「何もしてないよ」 「あたしに渡す前に、花びら一枚取ったんじゃないの?」 「じゃあもう一度やってみれば?」  リディアは部屋を出て、廊下《ろうか》の飾り台にあった花瓶からマーガレットを選んだ。  そして再び占ってみるが、やはり結果は同じだった。  やけになって、別の部屋の花を次々に試してみる。どういうわけか、どれもこれも偶数枚の花びらだ。 「リディア、何度やっても同じだよ。きみは僕の言うとおりにする。いいね」  あちこちの部屋を駆《か》け回っていたリディアを、通せんぼするように止めて、エドガーはおかしそうに笑った。 「変じゃない。もう妖精はいないのに、花びらの数がどれもこれも偶数枚だなんて」 「マーガレットはほとんど奇数の花びらだってこと? ヒューがそんなこと言ってたんだってね。公爵《こうしゃく》夫人に聞いたよ。そういう俗言《ぞくげん》があるのは知ってたけど、鵜呑《うの》みにしちゃいけない。今回数えてみたら、偶数も奇数も同じくらいだったみたいだよ」  数えた? 「まさか、屋敷中のマーガレット……」 「ぜんぶ偶数の花だから、花占いを何度やっても結果は同じだよ」  きっとこの家の召使《めしつか》いたちが、朝っぱらから数えさせられたに違いない。  こいつってばほんと、何考えてるんだか。 「マーガレットは公平《フェア》な花だ。だから占いも公平。さあリディア、出かけよう」 「あなたが何より不公平《アンフェア》なんじゃない!」  叫んでみたところで、リディアの一日がまたエドガーにつぶされるのは間違いなかった。 [#改ページ] [#挿絵(img/mistletoe_130.jpg)入る] [#改ページ]     駆け落ちは月夜を待って [#挿絵(img/mistletoe_131.jpg)入る] [#改ページ]  たとえ身分違いでも、周囲に反対されようとも、出会ってしまったふたりの愛を、引き裂《さ》くことは誰にもできないのだから。  結婚しよう、と彼は言った。  彼女はただ頷《うなず》いた。  見知らぬ遠い土地で、ひそかに結婚式をあげるため、ふたりは旅立つ。  馬車道を照らし出す、まるい月だけに見送られて。 「どう思われますか、アシェンバート伯爵《はくしゃく》。娘はこんな通俗《つうぞく》小説などにひたって、駆《か》け落ちをするつもりでいるようなのです。それも、あの卑《いや》しい男とです」  ブロウザー氏は、でっぷりした腰回りを緊張感でこころもち引き締め、目の前の若い伯爵に訴《うった》えかけた。  上品な家具や調度品に囲まれた、邸宅《パレス》の小サロンで、伯爵は、ブロウザーが手渡した本をぱらぱらと眺《なが》める。やがて、華《はな》やかな金髪を指先で軽くかきあげ、口を開いた。 「その男が、お嬢《じょう》さんに駆け落ちをそそのかしている、とおっしゃるのですね?」  洗練された物腰と柔和《にゅうわ》な笑みと、男女を問わず魅了《みりょう》してしまう整った容貌《ようぼう》の持ち主だ。それだけに女性関係は華やかで、あちこちで浮き名を流していると聞くが、このさい気にしてはいられないと、ブロウザーは伯爵|邸《てい》を訪れた。  もはや並大抵《なみたいてい》の男では、この問題を解決できそうにないからだった。 「上流階級《アッパークラス》の娘に近づいて、結婚をねらう不届きなやからがこのごろ増えているそうです。駆け落ちであれ結婚が成立してしまえば、親でもどうにもできません。その男も財産目当てに違いなく、どうやら私の娘が標的に」  ブロウザー家は地方の地主だ。貴族ではないが上流階級に属している。  当然、娘の結婚相手は、きちんとした家柄《いえがら》の、教養ある紳士《しんし》でなければならないと考えていた。 「それで、僕に何かご協力できることが?」  興味を持ったように、美貌《びぼう》の伯爵は本のページをさらにめくる。  かすかに口の端をあげるのは、何がおもしろいのだろうかと疑問に思うが、それよりブロウザーは、彼が相談事に力を貸してもいいと感じているうちに、本題を切り出そうと急いでいた。 「伯爵、どうか娘と会っていただけませんか。娘のノーマは、これまで若い男と接する機会がなさすぎたせいで、立派な紳士がどう振る舞うのかを知らないまま、あの男のことをやさしい人などと思ってしまっているのです。そのうえ、通俗小説に影響されて、身分違いの恋や駆け落ちをロマンティックだと信じ込んでいる始末。知り合いの若者を何人か引き合わせてみましても、目もくれません。ですがあなたなら……」 「お嬢さんを口説《くど》き落としてもいいとおっしゃるのですか?」  冗談めかした口調《くちょう》だったが、貴族と姻戚《いんせき》関係を持てるとしたら、ブロウザーにはむしろ願ったりかなったりだ。 「それはもう、たいした器量じゃありませんが、気に入っていただければ存分に持参金をつけて……」  言いながら、少し先走りすぎかと自重《じちょう》する。  相談にかこつけて縁談を求めているとは思われたくない。  うまくいけば一石二鳥《いっせきにちょう》だというだけだ。  伯爵がどう思っているのか、うかがおうとブロウザーは視線をあげる。  口元にかすかな笑《え》みを浮かべているだけで、彼がブロウザーの娘に興味を持ったのかどうかは、よくわからなかった。      *   *   * 「リディア、何を読んでるんだい?」  突然の声に、彼女はあわてて本を閉じた。  いつのまにリディアの仕事部屋に入ってきたのか、すぐそばに立っているのは、この屋敷の主人、エドガー・アシェンバートだった。  妖精国《イブラゼル》伯爵の称号を得たばかりの彼に雇《やと》われている少女、リディアは、妖精博士《フェアリードクター》だ。  スコットランドの田舎《いなか》からロンドンに出てきて数ヵ月、妖精《ようせい》に関してまったく無知なエドガーを助けて、彼の領地に棲《す》む妖精と人間がうまく共存していけるように知恵を絞《しぼ》っている。  それはともかく、にっこり微笑《ほほえ》むエドガーを警戒《けいかい》しつつ、彼の視線から隠すようにリディアは本を背後《はいご》に押しやった。 「な、なんでもないわ」  しかし、素早く腕をのばした彼に取りあげられてしまう。 「恋愛《ロマンス》小説? ふうん、こういうの読むんだ」 「あたしのじゃないわよ。そこに落ちてたの。メイドの女の子が落としていったんだわ」  未婚の娘が異性に興味を持つのはよくないと思われている昨今《さっこん》だ。恋愛を主題にしたこの種の通俗小説に、良識ある大人が眉《まゆ》をひそめるのはリディアも知っている。  しかし女の子のあいだで、とても人気があることも知っている。  知ってはいるが、人間よりも妖精とばかりつきあってきたリディアには、これまで読む機会はなかった。  だからよけいに、人前で堂々と読むのなんて、はしたないような気がしているのだ。 「おもしろい?」 「えっ? わ、わからないわ。ちょっと開いてみただけだもの。そうだ、落とし物だから執事《トムキンス》さんにあずけておかなきゃ」  エドガーの手から本を奪い返すと、リディアは部屋を出ようとした。 「気にならないの? その先ふたりの駆け落ちが成功したかどうか」  思わず立ち止まる。  もちろん気になる。ようやくふたりが、強い決意で駆け落ちの約束をした場面まで読んだところだった。  物語に没頭《ぼっとう》していて、エドガーが部屋へ入ってきたのに気づかないくらいだったのだ。  しかしどうして、彼がこの本の内容を知っているのだろうか。 「駆け落ちってドラマティックだよね。周囲に反対されたって愛を貫《つらぬ》くってことだろ? それだけふたりは強い絆《きずな》で結ばれてるわけだ」  仕立てのいいフロックコートに身を包み、シルクのネクタイを上品な黄水晶《きすいしょう》で留めている。そんな彼が、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》を細め、覗《のぞ》き込むようにリディアを見る。華やかな金髪がさらりと額《ひたい》に垂《た》れかかる。  貴族然とした端整《たんせい》な顔立ちが目の前で微笑めば、不本意にもリディアはドキドキさせられる。 「そういうの、あこがれない?」 「は?」 「駆け落ちを果たすのは、けっこうたいへんなんだよ。これからふたりに、今まで以上の試練がおとずれる。もしも失敗したら……」 「えっ、どうなるの?」 「僕ならきっと成功させるよ。何なら体験してみる?」  いつのまにか肩に手をまわされていて、リディアははっと我《われ》に返った。 「……あなた、やけに内容に詳しくない? ていうか、この本置いていったのって」 「きみがもうちょっと恋に興味を持ってくれると、僕の切《せつ》ない気持ちもわかってくれるんじゃないかなと思って」  開いた口がふさがらない。 「続き、読んでごらんよ。情熱的な恋の果てに、駆け落ちしてみたくなるかもしれないよ」 「あなたと駆け落ちなんて、ありえませんからっ!」  リディアは思いきり、肩にあった彼の手をつねってやった。  エドガーのふざけた態度はいつものことだ。  リディアを恋人扱いし、あまい言葉で口説こうとするが、それはもう彼のクセのようなものだと思っている。  誰だろうと女性が近くにいれば、言い寄らずにいられない性分《しょうぶん》なのだ。本気で彼が、リディアをとくべつに思っているわけではない。  わかってはいるが、リディアは彼の言動に振り回されてしまう。  何が切ない気持ちよ。  だいたいエドガーは、物語の主人公みたいに誠実で一途《いちず》な男性ではないのだ。  からかわないでと、リディアは本を突き返してきた。  続きはちょっと気になるけれど……。  ともかく、今日は日曜日だ。伯爵邸《はくしゃくてい》へ出勤しなくていい、つまりはエドガーと顔を合わせなくてすむ休日だ。  なのに、自宅にいてまでエドガーとのやりとりを思い出してしまうなんて。  脳裏《のうり》に浮かぶ彼の顔をかき消そうと、リディアは意味もなく立ちあがった。  ちょうどニコが、窓から入ってくるのが見えた。  ニコは、猫の姿をした妖精だ。床の上にぴょんと飛びおり、二本足で立つと腰に手をあてリディアを見あげる。 「おいリディア、妙なのが家の前にいるぞ」  彼女の親友であるニコは、手招きする代わりにふさふさした灰色のしっぽを動かした。  促《うなが》され、自室の窓から下方を覗き見たリディアは、建物に寄りかかるようにしてうずくまっている人影に気がついた。  しかし、ニコが妙なのと言ったのは、その人影ではない。すぐそばで身を屈《かが》める、引きずるように長い髪から服装まで、白っぽく透《す》けて見える女だった。  白いというよりは色彩のない指先で、うずくまる男の頬《ほお》をなぞる。 「……妖精?」  ふつうの人には見えにくい種類の妖精も、リディアの金緑の瞳にははっきり映る。  身を乗り出して目をこらそうとすれば、それはふっとかき消えた。  リディアは急いで自室を出、階段を駆《か》け下りて玄関から飛び出すと、通りにうずくまっている人影の方へ歩み寄った。  苦しそうに冷や汗を浮かべ、座り込んでいるのは若い男だった。 「あの、大丈夫ですか?」 「……ああ、はい……、急にめまいが……」  薄く目を開け、うめくようにつぶやく。  臙脂《えんじ》色のフロックコートだなんて少々派手な身なりだが、中性的なやさしい顔立ちのせいか下品な感じはしない。 「ここ、あたしの家なんで、よかったら中で休んでいってください。石畳《いしだたみ》は冷たいでしょう? ますます体に悪そうですもの」  少しためらいながらも、彼は頷《うなず》き、壁によりかかりながら立ちあがった。  その青年は、ロイドと名乗った。  ミント入りのお茶を口にすると、ようやく落ち着いてきたらしく、ほっと息をついた。 「ありがとう、助かりました。本当に親切なお嬢《じょう》さんだ」 「あたしでなくたって、困ってる人を助けるのは当然のことですわ」 「でもこのロンドンじゃあ、見知らぬ人間は病人でもまず警戒《けいかい》されるものですよ」  言われてみれば、ちょっと不用心だったかもしれない。日曜日だが、鉱物《こうぶつ》学者のリディアの父は、岩石採集に遠方へ出かけているのだ。  けれども、ミスター・ロイドはまだ立ちあがるのも億劫《おっくう》そうだし、おっとりと微笑《ほほえ》めば人畜無害《じんちくむがい》な印象だし、危険な人には思えなかった。 「あの、このごろよくこんなふうに、気分が悪くなるんじゃありません?」  不思議そうに彼は、リディアの方を見た。 「……ええ、その通りだけど。どうしてわかるんですか?」  ちらりと見かけた妖精らしきもの、あれのせいに違いなかった。  とりあえず、この家には|家付き妖精《ホブゴブリン》が棲《す》んでいるから、見知らぬ妖精は入ってこない。 [#挿絵(img/mistletoe_141.jpg)入る]  ロイドの顔色がよくなってきたのは、あの妖精の影響から離れられたからだろう。  しかし、妖精に取《と》り憑《つ》かれてる、なんていきなり言ったら、頭がおかしいと思われるだろうか。  妖精たちはいまだに、人々の隣人《りんじん》としてすぐそばにいるというのに、十九世紀も半ばの今となっては、その存在を信じる人はいなくなってきている。  しかしリディアはフェアリードクターだ。人と妖精のトラブルを解決するのが仕事なのだから、本当のことを伝えるしかない。 「あんた妖精に生気《せいき》をすいとられてるんだよ」  リディアではなく、ソファに寝そべって猫のふりをしていたニコが、急にしゃべった。  ロイドの、空耳かと思いたがっているような視線を受けながら、ニコは体を起こし、ソファに座り直す。  人間みたいに後ろ足を組み、えらそうにふんぞり返ったニコは、前足でネクタイを整えながらロイドににんまりと微笑みかけた。 「……ね、猫がしゃべった……?」 「おれは猫じゃない」 「あの、ロイドさん、彼は妖精なんです。ええと、それでつまり……」 「おれがしゃべってるって、すぐにわかったのはあんた、取り憑いてる妖精のせいで半分あの世に足を突っ込んでるからだぞ。妖精の領域にかかわっちまってるってことさ」 「ぼくが、妖精に取り憑かれてるって……?」  ロイドは混乱しつつも、ニコの言葉を受け入れている。 「美しい女の妖精です。ロイドさん、身におぼえがありませんか?」  はっとしたように、彼は両手で顔を覆《おお》った。 「そういえば、……でもあれは夢だと……。いつも同じ夢を見るんだ。美しい女性がそばにいて、ぼくに、愛をささやいて……」 「きっとラナン・シーです。人間を恋人にして、少しずつ生気を奪っていく妖精です」 「それじゃあ、ぼくはどうなるんだ?」  長くはないだろうと言うのははばかられ、リディアは困惑《こんわく》した。  ラナン・シーは、恋人になった男性に芸術的な霊感を与えるともいう。天才的な作品を遺《のこ》し夭逝《ようせい》した芸術家の中には、ラナン・シーの恋人だった者も少なくないだろう。  とはいえ、芸術に興味のない男性にとっては迷惑な恋人だ。 「あんた、ラナン・シーを恋人と認めたんじゃないのか? でなかったら、妖精はとっとと去っていったはずだぜ」  ニコがまた言った。 「認めたって……、夢の中のことだよ。美しい女性に言い寄られれば、その、なんというか、心をなぐさめられるような気持ちで」  ラナン・シーの求愛を受け入れてしまったらしい。といっても、ふつうの人間に、妖精の誘惑《ゆうわく》を退《しりぞ》けることは難しい。 「じゃ、美しい妖精女と添《そ》い遂《と》げるんだな。短い命だって、最高の気分で過ごせるさ」  顔から血の気が引き、彼は力なくうなだれた。  しかし、妖精のことで困っている人を見れば、ほうっておけないのがリディアだ。  半人前だけれど、フェアリードクターを名乗っている以上、どうにかしなければと思う。 「あの、ロイドさん、助かる方法がないわけじゃないと思うんです」 「おい、リディア、無謀《むぼう》なこと言うなよ」  ニコがあわてたようにリディアのそでを引っぱったが、彼女はひるまなかった。 「あたしが、何とかします。こう見えても妖精の専門家なんですから」 「本当に、助けてくれるんですか?」  妖精に取り憑かれているなんてわけのわからない状況で、けれども確実に彼は、自分の命が削《けず》られていくのを感じている。  たぶん藁《わら》をもつかむような気持ちで、リディアの手を握りしめた。 「妖精を追い払ってくれるんだね」  いきなり男の人に手を握られ、戸惑《とまど》う。  リディアに対し、そういうことをするのはエドガーくらいだった。 「ああ、天使のような人だ」  自然とこういう言葉が出てくるところも、エドガーみたいに女性の扱いに慣れているのかもしれないと思ったが、ロイドのちょっとたよりなげで人なつっこい印象は、リディアに緊張をもたらすものではなかったから、好意的に映っていた。 「お待ちください、伯爵《ロード》」  そのとき、あわてたような家政婦の声が聞こえてきた。 「あの、お嬢さまにご用でしたら、お取り次ぎしますのでしばらくお待ちを……」 「大丈夫だよ。そんな堅苦《かたくる》しいことしなくても、ここのご家族とは親しい間柄《あいだがら》なんだから」  エドガーだ。なんであいつが?  と同時に、まずいと思った。エドガーにこんなところを見られたら、ロイドが危ない。  なにしろエドガーは、子供じみた独占欲でリディアの周囲の独身男に目を光らせている。  そもそも彼は、女の子なんて選《よ》り取《ど》りみどりの外見も地位も持っている。とりたてて美人でもなく貴族でもないリディアを恋人扱いするのは、その気にさせることをゲームのように楽しんでいるだけなのだろうが、邪魔者《じゃまもの》を蹴散《けち》らすこともゲームのように容赦《ようしゃ》がない。  あわててロイドの手をほどき、リディアは応接間を飛び出した。  廊下《ろうか》に出たとたん、そこにいたエドガーにぶつかりそうになった。 「やあリディア、近くを通りかかったから、ひとめ会いたくなって来てしまったよ」  帽子を取って、いつもの調子で彼女を引き寄せると手に口づける。 「エドガー、家政婦さんの取り次ぎくらい待てないの?」  手を振り払い、あせりながら応接間のドアを閉めつつ、リディアは言った。 「おや、僕は自由に出入りを許されてる身だろ?」 「いつ誰が許したっていうのよ」 「きみの父上。鉱物学についての質問をしたら、いつでもこちらの書庫を使っていいとおっしゃってくれたよ。だからきみに会うついで[#「ついで」に傍点]に、本を借りに来た」  大学教授で学問バカの父は、エドガーがおもしろ半分に娘を口説《くど》いたりしていると不満に思っているくせに、ちょっとでも勉学に興味のあるそぶりをされれば、教え子のようなくだけた扱いになるのだった。  リディアにはエドガーに気をつけるよう言いながら、家へ自由に出入りする許可を与えてしまうなんて間《ま》が抜けている。 「父は留守なの。知ってるくせに押しかけてくるなんて、紳士《しんし》のすることじゃないでしょ」 「きみこそ、見知らぬ男を家へ入れるなんて、不用心じゃないか」  彼はちらりと、たった今リディアが閉めたドアに目をやった。  目ざといったらない。 「ロイドさんは、具合が悪くて家の前に座り込んでただけよ」 「なるほど。具合の悪い男が、初対面のきみに天使だとささやいて手を握るわけだ」  え? まさかそれも見てたの? 「……あなただって、似たようなことするじゃない」 「……てことは、本当に手まで握ったのか? それは、挨拶《あいさつ》しないわけにはいかないな」 「ちょっと、エドガー!」  しかし彼は、リディアの言葉など聞かず、勝手にドアを開けて応接間へと進んだ。 「ええと、ロイドさん。こちらはアシェンバート伯爵《はくしゃく》です」  しかたなく、リディアは紹介する。  あわてた様子で恐縮《きょうしゅく》しつつ、ロイドはどうにか立ちあがると、ぎこちなくお辞儀《じぎ》をした。 「これは、お目にかかれて光栄です」 「どうぞおかけになったままでけっこうですよ。ご気分がすぐれないそうで」  エドガーはおだやかに微笑《ほほえ》みかけるが、ぜんぜん目が笑ってないわとリディアは思う。 「お客さまがいらっしゃるとは知らず……」 「いいんですのよ、ロイドさん。伯爵がいらっしゃるなんて約束はなかったんですから」  戸惑うロイドに同情し、リディアは口をはさんだ。 「まったく、約束なんてなくても、気軽に訪問できる間柄というのは貴重《きちょう》なものですよ」  そう言ってエドガーは、リディアととくべつ親しいかのように主張した。  と思うと、彼はロイドに接近する。 「それで、どうですか体の具合は?」  完璧《かんぺき》な笑顔の奥で、ロイドのことを鋭く観察している。 「あ、はい。ずいぶんよくなりました。リディアさんのおかげです。本当にすばらしい女性だ」  エドガーの視線には無頓着《むとんちゃく》に、彼はリディアに微笑みかけた。  もしかして、ちょっと鈍感《どんかん》? エドガーがあきらかにむかついているのがわかる。 「ご自宅は近くですか? よければ馬車を呼びましょう」  暗に帰れと言うと、エドガーはロイドの返事を待たずに自分の従者を呼んだ。  すぐに現れた褐色《かっしょく》の肌の少年は、主人が何やらささやくのに頷《うなず》き、ロイドに歩み寄る。 「お送りします」 「いえ、あの、もう少し休めば……」 「お送りします」 「はあ……、それじゃあ」  ラナン・シーに憑《つ》かれ、妖精の魔力に接しているロイドは、従者の少年が秘めている暗い殺気を感じたのだろうか。  エドガーにだけは完璧に忠実な彼、レイヴンは、人間的な感情が薄く、主人にとってじゃまな相手にはそれだけで殺意をいだくのだ。  エドガーの嫌味《いやみ》には鈍感だったロイドだが、レイヴンに触れられて肩を震《ふる》わせ、脅《おど》されてでもいるように素直に従った。  このごろは、むやみに人を傷つけてはいけないと理解してきているらしいレイヴンだが、リディアはちょっと心配になる。  一方のエドガーは、ロイドが出ていくのを見送って、すっきりした笑顔を見せた。      * 「ロイド氏は、キングスウェイにある煙草《たばこ》屋の店員です。ブロウザー家のノーマ嬢と親しくしているという、例の男に間違いありません」  帰宅したエドガーは、ロイドを送っていかせたレイヴンの報告を聞きながら、深く眉根《まゆね》を寄せた。  リディアの家で、ロイドという名を聞いたときから、先日ブロウザー氏に聞かされた話が頭に浮かび、いやな予感がしていたのだ。  そもそもロイドという男が、問題の令嬢《れいじょう》と知り合ったきっかけが、気分が悪いと家の前にうずくまっていたからだという。リディアの場合とまるで同じだ。  リディアのカールトン家は、とりたてて資産家ではないが、世間一般から見れば何不自由ない豊かな暮らしぶりに入るだろう。裕福《ゆうふく》な家の娘との結婚をねらっているらしい彼が、ブロウザー家の娘とうまくいかなくなれば、次の標的にされる可能性はある。 「まったく、リディアの家に立ち寄ってよかったよ。今すぐ会いたいって気分は、やっぱり彼女の身の危険を察知したからかな」 「……そうですね」  無表情に相づちを打つレイヴンは、エドガーがリディアの家では要注意人物と認定されていることを知っている。  病人だと思われていたロイドより、家長の留守にやって来たエドガーの方が、危険な客だったことだろう。  応接間でリディアとひとときの会話を楽しんでいた間も、何事もないかと家政婦がしばしば様子をうかがいに来たものだった。 「レイヴン、リディアには僕という者がいるって、ロイドにきっちり言っておいたかい?」 「はい」 「念のために、リディアに伝えておいてくれ。ロイドにかかわるなって」 「私がですか?」 「僕が言ったら、単なるやきもちに聞こえるじゃないか」 「やきもちなのでは」  感情が未発達なのに、ときどき鋭い。 「……レイヴン、おまえにはまだ、やきもちと心底彼女のためを思う深い愛情の区別がつかないようだね」  素直にかしこまる彼にはまだ、主人の屁理屈《へりくつ》をそうと見分けることはできないのだった。      *  翌日、伯爵邸《はくしゃくてい》へ出勤したリディアは、エドガーが外出していると聞き、落ち着いた朝を過ごしていた。  なにしろエドガーが現れると、ちっとも仕事がはかどらないし、たまに彼に何の予定もなかったりしたら最悪だ。一日中、リディアが遊び相手にされてしまう。  もっともリディアは、そういう日はエドガーに予定がないのではなく、彼女と過ごすために予定を空けているのだとは知らない。  とにかく、彼がいないのなら好都合だ。  リディアは、お茶を運んできたレイヴンに声をかけた。 「ねえレイヴン、昨日ロイドさんを送っていったでしょ? 彼の家ってどこなの?」  ラナン・シーに憑かれたままのロイドが、どうしても気がかりだったのだ。  昨日のあの様子では、エドガーの命令でレイヴンがロイドに何か言っただろうし、ロイドはもう、リディアのところへは来ないかもしれないけれど、それでは彼が助からない。 「お教えできません」  しかしレイヴンはきっぱり言った。  これもエドガーの命令か。 「どうしてなの? あたしが助けた人なのよ」 「彼にはかかわらない方がいいと思います。女性に関してよくない噂《うわさ》がありますので」  たしかに、女性に好意をいだかれやすそうな容姿や雰囲気《ふんいき》ではあった。けれど。 「あなたの主人に、他人の女性の噂を批判をする権利があるっていうの? それにあたしは、あの人に気があるわけじゃなくて、フェアリードクターとして気になっているだけよ。彼は妖精《ようせい》に取り憑かれてるんだから!」 「エドガーさまは、リディアさんを危険な目にあわせたくないという深い愛情がゆえにおっしゃっておられます」  堂々と主張するその言葉も、エドガーが教え込んだ口先のごまかしに違いない。  それがわかるから、リディアは頭にきた。 「あいつのどこに深い愛情なんてあるっていうの? だいたい、エドガーが出かけてるのにあなたはいっしょじゃないって、朝っぱらから女性のところへ遊びに行ってるってことでしょ!」  図星だったのか、無表情のまましばし黙ったレイヴンは、早口に「忙しかったので」と弁解した。  忙しいって、エドガーの�従者《ヴァレット》�が彼の仕事であるはずだ。 「どうしてそんなに、あたしが男の人と知り合うのが気に入らないの? あたしは、あいつのものでもなんでもないのよ!」 「……失礼しました」  そのまま急ぎ足で出ていく少年は、これ以上ほころびが出るのを警戒《けいかい》していたのだろう。  本当に女のところなのね、と思うとリディアはますますむかつく。  ロイドは、妖精に魅《み》入《い》られたかわいそうな人なのだ。  エドガーに妨害《ぼうがい》なんかさせないんだから!  そんなリディアの熱意が届いたのかどうか、意外にもロイドの方から、再びリディアの家を訪ねてきた。 「ああリディアさん、やっぱりあなたの言うとおりみたいだ。妖精が現れたんです!」  開口《かいこう》一番《いちばん》にそう言う。取り乱した様子で、仕事が終わると同時にまっすぐこちらへ駆《か》けつけたようだった。 「あの、落ち着いてください。とにかく中へどうぞ」  リディアは彼をなだめつつ、応接間へ招き入れる。先日よりはしっかりした足取りだったが、青白い顔をして疲れた様子なのは相変わらずだ。 「そうだわ、このあいだはごめんなさい。アシェンバート伯爵《はくしゃく》の従者が、あなたを脅《おど》すようなことを言いませんでした?」  しかし彼は怯《おび》えたふうではなく、そんなことは忘れていたかのように、少し首を傾《かし》げた。 「ええはい、そうそう。あなたにちょっかいを出したら、剥製《はくせい》にして大英《だいえい》博物館に展示すると言われました。ユーモアのある方ですね」  ユーモア? 半分は本気に違いない。 「伯爵は、あなたに気がおありなんですね。でも、そっけなくされるからってぼくなんかに嫉妬《しっと》することないのに」  皮肉っている口調《くちょう》ではないから、図太いというのか、ただの無神経なのか。  エドガーが聞いたら、剥製ではすまなさそうだ。  しかし誰に何と言われようと、妖精に取《と》り憑《つ》かれているということを自覚したロイドには、リディアしかすがる相手がいない。  伯爵の脅しなど気にしている場合ではなかったのだろう。 「それよりリディアさん、妖精が。昨日は眠らないようにしてたのに、彼女が現れたんです。クローゼットの中に逃げ込んでも、扉を通り抜けて……。来ないでくれと言ってもきいてくれないし。いったいどうすればいいんでしょう」  椅子《いす》に腰かけるのももどかしそうに、ロイドは部屋に入るとすぐ話を戻した。  世間話をする余裕もなさそうだから、リディアも応《こた》える。 「考えてみたんですけど、ラナン・シーを遠ざけるには、結婚するのが一番だと思うんです。独身でいらっしゃいますよね」 「ええ、しかし……、結婚?」  ロイドのすがるような目に、困惑《こんわく》の色がにじんでいた。  ほかに方法がないとはいえ、リディアもため息をつきつつ思い悩む。結婚なんて、思い立ってすぐできるものではない。 「それしか、助かる道はないと?」 「ラナン・シーは、別の男性に気が移って去ることもありますが、それを待ってはいられないでしょう? たしかなのは、独身の男性にしか取り憑かないってことです」  うなだれ、彼は考え込んだ。 「何より問題は、お相手ですわよね」 「じつは、好きな女性がいます。でも彼女の家族に結婚を反対されていて……」 「まあ、どうして反対されているんです?」 「家柄《いえがら》がつりあわないから。彼女は由緒《ゆいしょ》ある家のお嬢《じょう》さんで、ぼくみたいな男とは……」  言いながら顔をあげた彼は、弁解するように続けた。 「でも彼女は、本当にいい子なんだ。最初から、ぼくの身分にかかわらず好きになってくれて、両親が反対するなら駆け落ちしてもいいとさえ言ってくれたほど」  駆け落ちと聞けば、読みかけのロマンス小説が思い浮かび、人ごとなのにドキドキする。  もちろん、ロマンティックだというだけで無責任に勧《すす》められることではないけれど、今は彼の命がかかっているのだ。 「ロイドさん、その女性としか結婚するつもりはないんですよね」 「それは、もちろんです。助かるためだとしても、他の人なんて考えられない」  なんて一途《いちず》な人なんだろう、とリディアは思った。  エドガーは、ロイドのことを女癖《おんなぐせ》が悪いかのようにレイヴンに言わせていたけれど、またいいかげんなうそをついたわねとあきれるだけだ。 「でしたら、迷う必要はないんじゃないですか?」  考え込んだロイドは、しかし深くため息をついた。 「彼女の気持ちを疑うわけじゃないけど、恋に恋してるというか、夢見がちなところがあって。駆け落ちの話になったときも、まるきりロマンス小説のヒロインの気分なんだ。でも、グレトナグリーンまで三百マイル以上もあるし、馬車に乗り続けるなんて現実は優雅なものじゃないし、途中でいやになるんじゃないかと思うと……」  三百マイルも馬車に乗る?  驚くが、考えてみれば、駆け落ちとは具体的にどういう手順で成立するのかリディアは知らない。それが書いてあったかもしれない恋愛小説は、途中までしか読んでいない。  深窓《しんそう》の令嬢が、ロイドにとっては切羽《せっぱ》詰《つ》まった最終手段の駆け落ちを、ロマンティックな逃避行《とうひこう》と感じてしまうのは無理もない気がするが、どうしてもひとつ解《げ》せない。 「あの、グレトナグリーンってどこですか?」 「え? ああ、スコットランドですよ。イングランドとの境界にある町」  なるほど、えらく遠い。 「ロイドさんの故郷ですか?」 「いえ、ぼくはロンドン生まれだから」 「え、じゃあどうしてそんな遠くまで? 近辺の町で、ひっそり結婚式さえあげてしまえば、もう誰もふたりを引きはなすことなんてできないわ」  駆け落ちはよくないが、正式な結婚であれば女性の名誉に傷はつかない。むしろ、未婚のままふたりで暮らしたり、離婚したりといった方が不名誉なのだ。  となると、結婚が成立してしまえば、反対していた親だって認めるしかない。  しかしロイドは、リディアの問いに困ったように首を傾げた。 「リディアさん、もしかしてロンドンに来られたばかりですか?」 「ええまあ。あたし、ずっとスコットランドで暮らしてたので」  ようやく合点《がてん》がいったように、彼は頷《うなず》く。 「イングランドでは、正式な手続きを踏んだ教会婚でしか夫婦とは認められないんですよ。でもスコットランドは法律が異なるから、教会婚でなくても、ふたり立会人を立てて宣誓《せんせい》すれば結婚が成立する。手続きを踏んでいる余裕もなく、誰にもじゃまされずに正式な夫婦になるにはスコットランドで拳式するしかないってことです」  なるほど、リディアには、イングランドの結婚法など無縁な話だった。  もともと別の国だったイングランドとスコットランドは、今では同じ連合王国《グレートブリテン》に属しているが、独自の法律を持っている。  そのために、イングランドでは違法な駆け落ち結婚も、スコットランドでなら成立するということらしい。 「グレトナグリーンは、越境してすぐ拳式できる場所、イングランド人にとって駆け落ち結婚の聖地なんです」 「そうだったんですか。でも、馬車より汽車で行った方が早いような気がしますけど」 「彼女のお気に入りの小説では馬車なんです。とにかく彼女は小説どおりにしたいらしいし、もし実行するなら、思いどおりにしてあげたい」  本当にその女性のことを、いとおしく思っているのだとリディアは感じ、共感するように深く頷いた。 「そこまで具体的な話をしたことがあるなら、あとは決意すればいいだけじゃないですか。小説にあこがれてたって、駆け落ちする気があるなら、彼女は本気だと思います」 「そうでしょうか」 「とにかく、もう一度話し合ってみたらいかがです?」  ロイドは不安げに、背中を丸めたままリディアを見たが、それでもやがて背筋《せすじ》を伸ばす。 「そうですね……。思い悩んでいてもしかたがない。彼女に話してみます」 「あ、駆け落ちの話をするときは、必ず陽《ひ》の高いうちに。ラナン・シーに、追い払おうとしてるって知られるとやっかいですから」  あせって、ロイドは部屋の中を見まわした。 「大丈夫です。今ここには妖精《シー》はいませんわ。でも、基本的にはあなたの近くにいるはずです。現れるのは夕刻か夜、暗い雨の日も気をつけてください」 「ありがとう。あなたは本当にやさしい人だ。何とお礼を言っていいか」  頼りなげな微笑《ほほえ》みを向けられると、どうしても手を差しのべたくなるような人だ。男の人だけれど、かわいいと思ってしまう。  リディアは彼に、はっきりと好感をいだいていた。 「あの、お世話になりついでに、もうひとつお願いしてもかまいませんか?」 「ええ、何でしょうか?」 「名前を貸してほしいんです。彼女に手紙を出して呼び出したいけど、ぼくの名前では手元にまで届かないだろうから」  もちろんリディアには、簡単なことだった。  二つ返事で引き受けたリディアに励まされ、ロイドは決意も新たに、いくぶん元気を取り戻した様子で帰っていった。      *  ブロウザー氏は、娘のノーマがアシェンバート伯爵《はくしゃく》に誘われ、楽しそうに外出するのを満足げに見送った。  引っ込み思案《じあん》の娘にとって唯一《ゆいいつ》の趣味の乗馬に、貴族の男なら難なくつきあってくれるというのがわかったようだ。ロイドでは、馬に乗ったことすらないはずだ。  彼の目には、ノーマは少しずつ伯爵になびいているように見える。当然だろう。ロイドみたいな卑《いや》しい男より、伯爵の方がどう考えても娘にはふさわしい。 「伯爵はノーマのこと、どう思っているのかね。何か聞いているかい?」  ブロウザーは、ちょうど姿を見せたノーマの家庭教師《ガヴァネス》に問いかけた。 「素直で純粋なお嬢さんだとおっしゃっておられましたわ」 「脈はあるだろうか」 「わたくしが教育したお嬢さまです。お気に召さない紳士《しんし》がいるはずございません」  胸を張って彼女は答える。むろんそうだろうとブロウザーは思う。 「しかし伯爵には、親しい女性が多いからね」 「どなたも遊び相手にすぎませんわ。結婚を考えるようなお相手はいないようですし」  いったん言葉を切ると、家庭教師はふと意味深《いみしん》に声を落とした。 「ただ、ひとりだけ、お嬢さまと同じ年頃の少女に言い寄っているらしいのです」 「本当かね」 「あくまで噂《うわさ》ですが、伯爵がたいへん尊敬している学者のお嬢さんで、本命だと低級紙《ゴシップペーパー》に書かれたことがあるとか。でも上流階級ではありませんから、本気ではないと思います」  家庭教師はそう言うが、ノーマと同じ年頃の少女だというところが、ブロウザーには気がかりだった。  アシェンバート伯爵は英国に帰国して間《ま》がなく、外国暮らしが長かったぶん、結婚相手に家柄《いえがら》を重視する主義ではなさそうだ。それに、伯爵と親交のある家の娘なら、結婚が難しいほどの身分差ではないだろう。 「その少女の名前は?」 「たしか、ミス・カールトンと」  はっとして、ブロウザーはそばのテーブルに目を落とした。  ノーマ宛《あて》の手紙はすべて、いったん父親である彼のもとに届けられる。もちろん、ロイドからの手紙があれば抜き取るためだ。  今日はそこに、見慣れない署名の手紙が混ざっていたが、女性名なのと、筆跡も女性らしいものだったので、ノーマの新しい友達だろうかと思っていた。  あらためてその手紙を取りあげてみる。  署名はリディア・カールトンだ。  迷わず彼は封を切った。中身は、ノーマを誘い出そうとするロイドからの手紙だった。 「いったい、どういうことだ?」  ロイドは、伯爵と親しいというこの少女にも、不純な動機で近づいているのだろうか。  いっそロイドが、ノーマのことをあきらめて、この少女と駆け落ちでも何でもしてくれればいいのにと、手紙を破りかけ、ふと彼は、思い直して手を止めた。  ひょっとするとこれは利用できるかもしれない。手紙の待ち合わせ場所べ行って、ロイドに会ってやろう。ブロウザーはそう考えた。      *  手紙がうまくノーマ嬢《じょう》に渡ったと信じているリディアのところへ、駆け落ちが決まったとロイドが報告に来たのは間もなくだった。  そうしているうちにも、妖精に生命を奪われ続けているロイドだ、一日も早い結婚が望まれる。  明日の夜出発と聞いて、リディアはとりあえずは胸をなで下ろした。  あとはふたりの駆け落ちが成功するよう見守るだけだ。もちろん、リディアの協力が不可欠だというロイドの期待に、できるかぎり添《そ》いたいと思っていた。  その日リディアは、ひとつ思い立ってエドガーの書斎《しょさい》へ忍び込んだ。ロイドの駆け落ちを助ける参考になるかもしれないと、この間の恋愛小説をさがそうとしていたのだ。  書棚《しょだな》の端からさがしていくと、見覚えのある青い背表紙はすぐに見つかる。  ほっとしつつ、棚から取り出そうと引っぱったとき、同じ棚にあった本がみんな、雪崩《なだれ》のように降りかかってきた。 「きゃあっ!」  あわてて退《しりぞ》いたリディアの足元に、本の小山ができる。呆然《ぼうぜん》とするリディアの耳に、今はいちばん聞きたくない声が聞こえてきた。 「僕の書斎にようこそ」  出かけていたはずのエドガーが、帰ってきたようだった。  勝手に書斎へ入ったことに、リディアはあせっていた。 「あの、ごめんなさい、あたし……、ちょっとさわっただけなのよ。ええと、ドアが開いてたからつい……」 「きみならいつでも、書斎でも私室でも歓迎するよ」  近づいてきた彼は、リディアがしっかり握っている本に気づいたはずだ。意味深ににっこり笑う。 「それを抜き取るとね、このへんの本が一気に落ちる仕掛《しか》けなんだ」  は? 「……何のために?」 「もしもきみが駆け落ちに興味を持った場合、当然続きが読みたくなるだろうと思ったから」 「な、何考えてんのよ!」 「で、物音がしたらすぐに駆けつけてつかまえる、ってわけ」  つかまえるって。  リディアは、罠《わな》にかかった野鳩《のばと》みたいな心境だった。間近に歩み寄られ、あとずさろうとしたがすぐに背中が書棚にぶつかった。 「駆け落ち相手に誰を想定してる?」  あまくささやきながら、リディアの赤茶色の髪をもてあそぶ。 「僕だと言わないと、それは貸さないよ」 「駆け落ちに興味なんかないわ。し、知り合いが駆け落ちを考えてるから、あたしは力になりたいと思っただけよ」  ふとエドガーは、きびしい表情になった。 「まさかまた、ロイドに会った?」  どうしてわかったのだろう。 「べつにいいでしょ。あたし、彼の結婚を応援することにしたの。そうよ、ロイドさんには真剣におつきあいしてる女性がいるのよ。あなた彼のことひどく言ったけど、そういう人じゃないんだから」 「リディア、恋人がいるって言うとたいてい女の子は警戒《けいかい》を解く。恋人とうまくいかないとか、相談にかこつけてふたりきりになろうとするような男の罠にかかっちゃいけないよ」 「そ、そんなこと考えるのはあなたくらいでしょ!」 「心配なんだ。きみはやさしくて人がいいから、悪い男にだまされやしないかと」  あなた以上に悪い男はいないわよ。 「そっちこそ、もう女の子をだますのはやめたら?」 「誰もだましてなんかいないよ」 「そ、じゃあこのところよく会ってる令嬢とは、本当に縁談が進んでるのね、おめでとう」  言い放ち、リディアは彼のそばをすり抜ける。しかしあわてたようすで、彼はリディアの腕を引いた。 「待ってくれ、誰に聞いたのか知らないけど、縁談なんてない」 「ここのメイドさんたちが噂《うわさ》してたわ。立派な紳士《しんし》が直接、たっぷり持参金をつけたご令嬢をもらってくれって来たんですって? で、あなたは毎日のようにそのお嬢さんに会ってるんでしょ」 「それは違うよ、知り合いのお嬢さんをちょっと元気づけてくれって頼まれただけなんだ。僕にはきちんと交際している人がいると言ってある……」 「あら、そんな人がいたの」 「リディア」  いつになく彼が困っているように見えると、リディアは勝ったような気分になった。 「でも、恋人がいるって宣言するのも、口説《くど》き落とす手段なんでしょ。がんばってね」  やりこめられてばかりのリディアにしては、うまく切り返してやったと思う。  力任せにドアを閉め、すっきりしながら書斎を出てきた彼女だが、ひとり仕事部屋に戻ると、急に腹が立ってきていた。  ほんと、女たらしなんだから。  でも、本当に縁談なのかしら。  今は伯爵になったエドガーにとって、縁談くらいいくつあっても不思議はない。彼がどんなにあまいことを言っても、リディアは自分に、貴族の令嬢にかなうほど、とくべつな魅力があるとは思えない。  などと、考えれば考えるほど、すっきりするどころか、だんだんと落ち込んでくるのはどうしてだろう。  そんなことより、少しは駆け落ちについて知っておかなければならない。リディアはそっと本を開く。  月の明るい夜、家を抜け出して落ち合うふたり。そこから、長い逃避行《とうひこう》が始まる。  四頭立ての馬車が街道を疾走《しっそう》する。  スコットランドまであと何マイルか。ふたりを引き離そうとする追っ手の馬車が、刻々と近づいてくる。  物語に没頭《ぼっとう》することで、リディアは落ちこんだ気持ちを紛《まぎ》らせていた。      *  駆《か》け落ちの手助けだなんて、リディアはどこまでお人好しなんだか。  ニコはつぶやきつつ、垣根《かきね》をくぐる。四つんばいになって猫のふりをしながらレーンを横切り、素早く煉瓦《れんが》色の建物に歩み寄った。  ロイドの恋人がいるという、邸宅《ていたく》の窓辺へと、様子をうかがいながらよじ登る。 「それにしても、出発が今夜だなんて急な話だよ」  月が出るのを待って出発し、彼女とはロンドン郊外《こうがい》の人目につきにくい場所で落ち合う約束らしかった。  そのさい、リディアにそこまで同行してほしいとロイドは言った。  ノーマ嬢《じょう》とのことで、彼は行動を見張られているらしく、ひとりで馬車に乗ってロンドンを出ようとすれば、すぐに駆け落ちの計画に気づかれてしまう可能性があるからと。  リディアが同行すれば、いくらなんでも女連れでノーマ嬢と駆け落ちするとは誰も思わないだろう。  そしてニコはというと、この家の娘が、誰にも見つからずに屋敷を抜け出せるかどうか確認しなければならないのだった。  何かあったら助けてあげてね、とリディアは簡単に言うが、何をどう助けろってんだよとニコは思う。  令嬢がしくじらないことを祈るしかない。 「ったくめんどくせーな」  明かりのもれている部屋を覗《のぞ》き込めば、これから晩餐会《ばんさんかい》でも始まるのか、人が集まってにぎやかに話している様子が見えた。  若い娘が何人かいたが、ノーマと呼ばれた少女はすぐにわかった。  はにかんだ表情で受け答えしている、地味な印象の少女だ。着飾ってはいるが、華やかな席に馴染《なじ》めないでいるように見える。  集まっている若い男たちも、彼女が目立たないせいか興味がないせいか、主催者の娘なのに素通りする。  そんな状況に慣れきっているらしい少女にとって、ロイドだけは違っていたのだろうか。  それにしても、彼女はじっと椅子《いす》に座っているだけだ。そろそろ出かけなければ間に合わないはずだが、そわそわする様子もない。 「ん?」  そのときニコは、少女の前へ進み出た金髪の青年に気づき、窓ガラスにへばりついた。 「ありゃ伯爵《はくしゃく》じゃねーか?」  やわらかな物腰に隙《すき》のない笑みを浮かべ、少女に顔を寄せてささやきかける。見間違うはずもない、あの女たらしだ。  ロンドンの社交界ではすでに有名人のエドガーだ。この家も上流階級のようだし、晩餐会に招かれているとしても不思議はない。  しかし、奴《やつ》がノーマ嬢に興味を持ってはりついているとなると、彼女は家を抜け出せないではないか。 「ああもう、やっかいだな」  ニコはテラスの方へ回り込むと、開いていた窓からそっと中へと入り込んだ。  さっきの広間へ向かおうとしたとき、別の部屋から話し声が聞こえた。 「旦那《だんな》さま、ロイド氏はそれで、二度とお嬢さまの前に現れないと約束をしたのですか?」 「さあ、黙っていたが、話は理解しただろう」  旦那さまと呼ばれた男は、この家の主人、ブロウザー氏だろう。女は、使用人というよりは娘の家庭教師くらいの地位に見えた。 「ひそかにノーマを呼び出したはずの場所に、私が現れて驚いていたがね」  あれ? とニコは首をひねる。ノーマ嬢を呼び出す手紙を、もしかしてこの親父《おやじ》が勝手に開封したのだろうか。 「ノーマが私に手紙を見せたと言ってやった。彼女にはこの上ない縁談があるし、お相手のアシェンバート伯爵に夢中で、ロイドのことなどもう忘れたがっているとね」 [#挿絵(img/mistletoe_171.jpg)入る] 「彼は信じたのですか?」 「遠くからノーマの様子を見せてやったよ。あのときはちょうど、伯爵がノーマをロットンロウへ乗馬に誘ってくださっていたからね。楽しそうに笑っているのを見て、もう脈はないとわかったはずだ」  ちょっと待てよ。ロイドはノーマと今夜駆け落ちの約束を、していないのか? 「ようございました。そもそも財産目当てにお嬢さまに取り入った男です。脈がなければいつまでもつきまとったりはしないでしょう」  財産目当て? とニコはさらに聞き耳を立てる。 「まったく、資産家の娘をだまして駆け落ちに持ち込んで、持参金や遺産で裕福《ゆうふく》に暮らそうなどという詐欺師《さぎし》は昔からいるが、私の娘がねらわれるとは思わなかったよ」 「そういえばロイド氏は、伯爵と噂《うわさ》のあった少女にも近づいているのでしたね」 「それはそれ、奴が誰と駆け落ちしようと、私にはもう関係ない」  ブロウザーは、無責任にそう言いながら、かすかに口の端をあげた。  まさか、それってリディアのことじゃ?  ううむ、と二本足で立ちあがったニコは、腕を組んで考え込んだ。  ロイドはリディアに、ノーマ嬢が駆け落ちを承諾《しょうだく》してくれたと言ったのだ。なぜうそをついたのか。  今も、彼女が来ないことを知っていて、リディアと郊外へ向かっていることになる。  てことは、ノーマの代わりにリディアを連れていくつもりなのか?  ラナン・シーに生気《せいき》を吸い尽《つ》くされる前に、誰かと結婚しなければロイドは助からない。  リディアには、ブロウザー家ほどの財産はないが、ロイドにとって今の一大事は、財産より命だ。 「ああそうだよ、なんかなれなれしい奴だったし、ノーマ嬢が無理だからってうまいぐあいに親身になったリディアに目をつけたんだとしたら。ああ、こうしてられないぞ!」  ドアの陰できびすを返そうとしたときだった。ニコはいきなり首根っこを押さえつけられた。と思うとそのまま持ちあげられる。 「見つけたよこの野良猫。せっかくのプディングをひっくり返してくれたね」  キッチンメイドらしい女が、ニコをぶら下げたまま歩き出した。 「違うよ、おれじゃない!」  じたばたと手足を動かすが、メイドは動じない。 「おれは猫じゃねーんだ。離せってばこら! 毛並みが乱れるだろうが!」  必死に主張しても、メイドには猫が鳴きわめいているようにしか聞こえないらしい。 「ったく、洗濯釜《せんたくがま》へ放り込んでやろうかしら」 「や、やめろってば」  あせりながらニコは、助かる手はないかとあたりを見回す。  そしてふと、階段の踊り場にいたエドガーの姿に目をとめた。  広間から連れ出してきたらしいノーマとふたりきりの場所で、完全に口説《くど》く態勢に入っているのか。彼に手を取られ、頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させている少女に、何やらささやきかけている。 「おい伯爵! 助けてくれ!」  エドガーは、ちらりと視線だけでニコとメイドの方を見た。が、あっさり無視して少女の方に向き直る。さりげなく彼女の肩に手を置いたりする。 「そうかよ、女の方が大事かよ!……この悪党、女ったらし! リディアがどうなってもいいのかよーっ!」 「ちょっと、きみ」  そのとき、メイドを呼び止めるエドガーの声が聞こえた。 「その猫は僕が連れてきたペットなんだけど、何か問題でも?」  ペット、と言われてニコはむかつくが、あわてて彼を解放したメイドが、恐縮《きょうしゅく》しつつ逃げるように立ち去るのを見れば少しだけ胸がすいた。 「ニコ、リディアに何かあったのか?」  しかしまた、エドガーに持ちあげられる。 「おい、おれを抱きあげるな」 「リディアは?」  この独善的な伯爵は、こういうときニコのために折れたりしない。しかたなくニコは、猫みたいに持ちあげられたままの屈辱的《くつじょくてき》な状態で話す。 「ロイドが、今夜ここの娘と駆《か》け落ちを約束したって言ってリディアに手助けを頼んだんだ。あの男、妖精に取《と》り憑《つ》かれてて、誰かと結婚して妖精を追い払わないと死んじまうからってリディアは親身になって。今ごろふたりで、ノーマ嬢《じょう》との待ち合わせ場所だっていうロンドン郊外《こうがい》へ向かってるはずなんだ」 「今から駆け落ち? 彼女はここにいて出かける様子はないし、晩餐会《ばんさんかい》はこれからだよ」 「だからロイドの奴、リディアをだましたんだよ。その娘とはもう結婚できそうにないから、リディアを連れていって結婚を承諾させようってつもりなんじゃ……」  いきなりニコは放り出された。  エドガーは、呆然《ぼうぜん》としているノーマ嬢に失礼を詫《わ》び、早足で玄関ホールへ向かう。  ニコも急いであとを追った。  リディアとロイドを乗せた馬車は、ロンドンの街並みを離れ、林の道を進んでいた。  木立《こだち》の合間に、のぼりはじめたまるい月が浮かんでいる。  ロマンス小説にあった駆け落ちの場面と同じだと、リディアは奇妙な感覚で眺《なが》めやった。  ノーマにとっては、理想どおりのロマンティックな旅立ちになるだろう。 「彼女、ちゃんと家を抜け出せたかしら」  ロイドはずっと緊張した面《おも》もちで、窓の外に目をやったきり黙っていた。  道なりに行くと、背の高い木が二本目立つ場所があるという。小説にも出てきた場面、そこが待ち合わせ場所だということだ。  リディアは、そこでふたりの出発を見送り、ロンドンへ帰ることになっていた。 「ロイドさん、体調はどうですか?」 「ええ、まだ大丈夫です。でも、妖精は相変わらずそばにいるんですよね」 「馬車の中には入ってきませんけど……」  リディアは声をひそめる。 「駆け落ちのことを聞かれると、じゃまをされるかもしれませんから、ノーマさんと会っても、そのことを口にしないでくださいね」  頷《うなず》きかけ、リディアの方をじっと見る。  と思うと、ロイドは急に悲しそうな顔になった。 「リディアさん、あなたにあやまらなければなりません」 「え?」 「じつは、ノーマは来ないんです」  驚いて、リディアは身を乗り出した。 「そんな、どういうことですか?」 「彼女はやはり、ふさわしい男性と幸せになるべきなんだ。そう思ったから、ぼくはもうあきらめるしかないと覚悟しました」 「でも、だったらラナン・シーを追い払うことができないわ」 「ええ、それでいいと思っているんです。彼女が幸せになれるなら」  表情からは、ゆるぎない決意がうかがわれた。  でも、そう思っているなら、どうして駆け落ちを実行するかのようにリディアに伝えたのだろう。  わざわざリディアを連れて、ロンドンを出る必要があるとは思えない。  不審《ふしん》に感じたとき、ロイドはぐいとリディアの腕をつかんだ。 「お願いがあります。リディアさん、アシェンバート伯爵《はくしゃく》との交際をあきらめてください」 「えっ、な、なにを……」 「ノーマには、伯爵との縁談があるそうなんです。それに彼女は、伯爵に心|惹《ひ》かれている様子で、ふたりで楽しそうに乗馬をしているのを見かけました。ぼくなんかといっしょにいたときよりも楽しそうだった」  まさか、エドガーがこのところ会ってた女性って、ノーマ嬢なの? 「ブロウザー氏は、ぼくのことを財産目当てだと言うけど、ぼくは本気でノーマを想《おも》っている。それだけはわかってもらいたかったけど、彼は、だったらノーマのために、あなたを連れていくようにと、伯爵からあなたを引き離してみせろと言ったんだ」 「あ、あたしはべつに、エドガーとは何も」 「わかってます。どっちかっていうと、伯爵がちょっかい出してるって感じだ。でも、だったらぼくのすることは、そんなにあなたを傷つけることじゃないと思いたい。とにかく伯爵があなたから興味を失えば、ノーマとの縁談が進む可能性はあるわけでしょう?」  エドガーが、どういうつもりでノーマ嬢に近づいているのかリディアは知らない。  縁談を受けるほど、彼女を気に入っているのかどうかもわからない。  ノーマのことも軽い気持ちで口説いているだけかもしれないと思いたいような気がしながら、リディアは冷静になろうと深呼吸する。 「あたしを、どうするつもりなんですか?」 「このままぼくと、もう少しだけ同行してください。それだけです。あなたに危害を加えるつもりはありません」  駆け落ちのまねごとをするつもりらしい。  エドガーがブロウザー家に縁談を持ちかけられているなら、ロイドを見張っているブロウザー氏の召使《めしつか》いから、リディアが連れ出されたことを知らされるだろう。  ノーマに近づき駆け落ちしようとしていたロイドの標的が、リディアに変わったと聞かされれば、エドガーだって信じるに違いない。  伯爵という地位のある人物なら、ほかの男と駆け落ちしかけたような娘からは気持ちが離れるはずだということか。  そうね、エドガーはあきれるかもしれない。  彼の忠告もきかず、財産目当ての男にあっさりなびいて、駆け落ちする気になるなんてと。  ロイドは、財産目当てなんかじゃない。けれど純粋だっただけに、リディアにとっては不運な事態になろうとしている。  不運?  エドガーがリディアに興味を失うかもしれないというだけだ。 「次の町でおろします。まだ、汽車でロンドンへ帰れます」  駆け落ち未遂《みすい》という不名誉な噂《うわさ》が流れないように、そしてエドガーの耳にだけ、数時間の逃避行《とうひこう》が事実として知れる。それならリディアはそんなに傷つかないはずだと、ロイドは考えたのだろう。  そうよ、エドガーの態度が変わるくらい何よ。どうせその程度の軽薄《けいはく》男だってことよ。  リディアは自分に言い聞かせながら、ちくちくするような胸の痛みからは目をそらした。  フェアリードクターとしてロイドを助けたかったのだ。後悔はしない。  助けることができなかったのだから、せめて彼の本気の想いをブロウザー氏に理解してもらえるように、協力したってかまわない。  そう思い直したつもりだった。 「……違ったんですか?」  急にロイドは、あせったようにリディアを覗《のぞ》き込んだ。 「え……?」 「いや、ええと、リディアさん、泣かないで」  あたしが、泣いてる?  あわててリディアは目をこする。 「まさかロンドンに好きな人が?……いや、伯爵なんですね? 本当は彼のこと……」 「ち、違います! そんなわけないじゃないですか」  しかしリディアも、自分の心が乱れている理由がわからない。 「ごめん、あなたを傷つけるつもりはなくて」  うろたえながらロイドは、頭をかかえ込んだ。  そしてまた、顔をあげる。 「戻りましょう。あなたを巻き込むなんて、やっぱりぼくは間違っていた」 「いえあたしは、いいんです、行ってくださ……」  そのとき、馬車が大きくゆれた。  馬のいななきが聞こえ、体が大きくゆさぶられる。壁に肩をぶつけ、リディアは痛みをこらえながら、ようやく馬車が止まるのを感じていた。 「な、何なの……?」  どうにか体を起こす。  のぞき窓の向こうで、御者《ぎょしゃ》が気を失っているのかぐったりしている。  外に見えるのは、月明かりに照らし出された木々と、この馬車のものではない馬影だ。  鞍《くら》をつけた馬。ということは、誰か人が乗ってきた馬なのだろうか。  ちょうど辻《つじ》にさしかかったところで、出合い頭《がしら》にぶつかりかけたのかもしれないが、そばの地面には落馬したような人影もない。  ロイドの方を振り返ろうとしたとき、リディアの視線の先で、突然、窓ガラスが割れた。  と思うとそこからのびた腕が、ロイドの首にまわされる。そのまま彼を引きつけ、のどをしめつける。  一方で、側面のドアが勢いよく開けられると、悲鳴をあげる間もなく、リディアは外へ引っぱり出された。 「いやっ、離して! この、強盗! あたしたちにはお金なんてないわよ!」 「リディア、僕だよ」  耳に馴染《なじ》んだおだやかな声だった。顔をあげると、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》がすぐそばにあった。 「……エドガー……?」 「間に合ってよかった。追いつけなかったらどうしようかと思ってたよ」  そう言って頭を抱きよせる。  ほっとしたように何度も髪を撫《な》でるものだから、リディアは、ついさっき考えていた、エドガーの態度が変わるかもしれないという想像が、想像にすぎなかったと確認するかのように彼の胸に寄りかかっていた。 「怖かっただろう? でももう心配ないよ。そいつには存分思い知らせてやるからね」  さらに強く抱きしめられ、リディアは我《われ》に返った。 「レイヴン、そいつを引きずりおろせ」  エドガーの忠実な従者が、ロイドを乱暴に突き放す。彼が馬車から転げ落ちるのを見て、リディアは駆け寄ろうとしたが、エドガーが力を入れて彼女の体を引き止めていた。 「お願い、ロイドさんに乱暴しないで」 「きみを誘拐《ゆうかい》しようとした男だよ」 「誘拐? ……あたしが駆《か》け落ちしたって聞いたんじゃ……?」 「きみが僕以外の男に心を許すわけないじゃないか」  エドガーにだって心を許したおぼえはない。 「とにかく、これには事情があるの」 「僕の大切な女性の名誉を汚《けが》そうとしたんだ。許すわけにはいかない」  一歩も退《ひ》く気配《けはい》のないエドガーは、本気で頭にきているようだった。けれどそんな彼に、リディアは反発心をおぼえた。 「こうなったのは、あなたが彼の恋人を口説《くど》こうとしたからなのよ!」 「口説いてなんかないよ。ノーマ嬢《じょう》がちゃんとした紳士《しんし》に関心を持つようにしてくれってブロウザー氏に頼まれただけ」  だとしても、役得だとおもしろがっていたのは間違いない。 「でもそのせいで、ブロウザー氏はあなたとノーマ嬢の縁談が成立すると感じたのよ。だからロイドさんにあたしを連れ出させて、あなたがあたしから関心がなくなるように仕向けようとして」 「何だって?」  エドガーを落ち着かせたかったリディアだが、これでは火に油を注いだかもしれない。 「僕の恋人を辱《はずかし》めて、僕から引き離そうとしたってこと? あのタヌキオヤジ、縁談なんて受けたつもりもないっていうのに、ロイドとグルになってたのか!」 「だから違うってば……」 「そんなことで僕の気が変わると思ったら大間違いだ。リディア、きみが簡単に男になびくような女の子じゃないってことは、身に染《し》みて知っているんだよ。だからずっと考えてた。何があってもきみをあきらめるつもりなんかない。もしも追いつけなくて、ロイドとむりやり結婚式をあげさせられてたら、あちこちに圧力かけてでも白紙に戻すつもりだったし、国教会の司教を買収《ばいしゅう》することだって、真剣に考えてたんだ」 「……え?」  混乱しながら顔をあげると、切《せつ》なげな瞳に見おろされる。  リディアの本意でないなら、別の男性と結婚が成立してしまったとしても、まだ連れ戻す気だったのだろうか。意外すぎてどう反応していいのかわからない。  口先だけの調子のいいせりふ? そう思っても、不本意にも頬《ほお》が熱くなってしまう。  でも、圧力とか買収とか、そういう考え方がエドガーだわ。  黙り込むしかなかったリディアが、納得したと思ったのか、エドガーはレイヴンが押さえつけているロイドに歩み寄った。 「ロイド君、リディアはあくまできみに同情的なようだけど、僕はそんなに心が広くないんだ。財産目当ての駆け落ちをねらっていたなら誰でもよかっただろうに。彼女に手を出したのが間違いだったと思い知ってもらうよ」 [#挿絵(img/mistletoe_185.jpg)入る]  胸ぐらをつかむエドガーを止めようと、リディアはすがりつく。 「だめよエドガー! ロイドさんは本気でノーマ嬢が好きだったのよ。彼女の気持ちがあなたに移ったならあきらめようって、彼女のためにブロウザー氏の言うとおりにしようとしただけなんだから!」 「おいリディア、ラナン・シーが」  割り込んだのはニコの声だ。  エドガーといっしょに来ていたのか、馬車の屋根の上に立った彼が、空を指さす。  明るい月を背負うように、真っ白な長い髪を風になびかせ、ゆるりと宙を舞う女の姿が浮かびあがる。  駆け落ちとか結婚とか、きっと聞こえてしまったのだろう。人の目に触れるよう意図《いと》して現れた妖精は、ロイドの前に降り立った。  うっすらと光を帯びているかのような白い肌に、透《す》き通るほど薄い布をまとっている。美しく、そしてなまめかしい姿だった。  澄《す》んだ泉のような瞳に見つめられ、ロイドは動けない。  エドガーも、不意に現れたこの世のものでない存在に圧倒されたのか、ロイドから手を離して立ちつくしている。  ラナン・シーは、ロイドを抱きしめようとするかのようにゆっくりと手をのばした。 「やめて!」  リディアは叫んだ。  妖精《シー》はロイドの自由を奪って、どこかへ連れていくつもりだ。自分を裏切ることができないように。 「ロイドさん、妖精を見ちゃダメ!」  しかしロイドは、妖精の持つ魔力にあらがえず、ゆるゆると手を持ちあげる。 「待ってください、連れていかないで!」  そのとき声とともに、木の陰から少女が飛び出してきた。  ひとり馬に乗ってきたらしい彼女は、いつからそこで様子を見守っていたのだろうか。  ラナン・シーに触れようとしたロイドの手を、奪い取るようにしながら、間に割り込む。  震《ふる》えながらも彼の手を握りしめ、けっして渡さないと、瞳に強い決意をにじませている。 「こ、この人はわたしの婚約者です! 取《と》り憑《つ》いても無駄《むだ》よ!」  ノーマ、と弱々しくロイドがつぶやいた。 「伯爵が猫と話をしてらっしゃるのを聞いて、驚いたわ。ええ、猫がしゃべるなんて信じられなかったけど、たしかに言葉を話してて、でも驚いたのはそれより、あなたが妖精に取り憑かれて死にかけてたってこと……。それからわたし、お父さまを問いつめたの。何もかも聞いて、急いで追いかけてきたのよ」 「でも、ノーマ、伯爵といっしょにいたあなたは本当に楽しそうで、もうぼくのことなんて忘れたと……」 「信じてくださらないの? 伯爵には最初から、わたしには想《おも》う人がいると話してあったわ。だったら父を油断させるためにも楽しそうにした方がいいと助言くださって。あなたとのこと、いろいろ相談に乗ってくださってたのよ」  それは完全に、彼女を油断させる手だ。ロイドを悪く言っていたエドガーに、協力する気があるわけがないではないか。  そう思ったリディアだが、エドガーに嫌味《いやみ》を言ってるような場合ではなかった。  ラナン・シーがむりやりロイドの肩をつかんだのだ。  ノーマがすがりついて抵抗する。  ロイドも、ようやく決意を固めたように声を振り絞《しぼ》った。 「……は、離してくれ、ぼくはノーマを愛してる。彼女と結婚する!」  強い風が巻きあがった。  妖精の長い髪が触手《しょくしゅ》のようにロイドにまとわりつき、彼の手は今にもノーマと引き離されそうだ。 「ラナン・シー、聞いて!」  リディアは叫んだ。 「お願い、その人は解放してあげて、あなたは、芸術に魂《たましい》をささげる男性を見つけるべきだわ、そうでしょう?」  風によろけながら、リディアは続ける。 「人間の女性よりも、詩神《ミューズ》としてのあなたを求める人はいるはずよ!」  かすかに、シーがリディアの方を見たような気がした。  張りつめていた妖精の魔力がゆるむのを感じ、わかってくれたのだろうかとリディアの緊張もわずかにゆるむ。が。 「それにしても、すごい美女だね」  エドガーのつぶやきが聞こえた。 「バカッ、よけいなこと言わないで」  リディアはあせった。  とたんに風が凪《な》ぎ、ラナン・シーがエドガーの方に振り返ったからだ。  リディアは冷や汗を感じた。  まさか、のりかえる気じゃ。  案《あん》の定《じょう》、妖精はゆるりと体の向きを変え、こちらへと近づいてこようとしていた。  リディアはとっさに、エドガーの腕をつかんだ。 「ダメっ! 来ないで! ぜったいにダメなのーっ! この人はあたしの……」  再び、あたりの木の葉がはげしく鳴り、風の気配《けはい》が周囲を満たす。  突風が来るかと身構え、エドガーを離すまいと力を入れる。そんなリディアを守ろうとするように、包み込む腕を感じたとき、すべての音が急にやんだ。  暗い林の辻《つじ》からは、ラナン・シーの姿がかき消えていた。      * *  月光が落とす馬の影が、長く伸びて道に横たわっている。  リディアは、エドガーの片腕に腰をかかえ込まれ、考えられないほど彼に密着している。  抵抗を感じるが、突き放すわけにはいかない。なにしろ彼女は馬上にいるのだから。  馬車は、ロイドとノーマの二人を乗せて、たたき起こされた御者《ぎょしゃ》とともにスコットランドへ旅立っていった。  リディアはエドガーたちと帰るしかなく、ひとりで馬に乗れないからには、こういう状態にならざるを得なかったのだ。  少し後ろを、レイヴンとニコを乗せた馬が続く。  レイヴンに乗せてもらった方がよかったかしら、と思ったが、希望してみてもたぶんそうはならなかっただろう。 「あのふたり、連れ戻されずにちゃんと式を挙げられるかしら」  黙っているのも気恥ずかしくて、リディアは言う。 「ブロウザー氏に無駄な追跡はしないよう、ちょっと言っておいてあげるよ」  含みのある口調《くちょう》のエドガーは、ブロウザーがロイドに、リディアを連れていくようそそのかしたことを根に持っている。  ノーマをロイドから引き離すよう頼まれていたはずのエドガーが、結局|駆《か》け落ちを助けてしまったことは、たぶん彼にとってたいした問題ではない。  むしろブロウザーに、高圧的な態度で謝罪を求めるだろう。 「ねえリディア、さっきは何て言おうとしたんだい?」  ふと彼が、ささやきかけるように言うものだから、リディアは髪をくすぐる吐息《といき》にびくりとなった。 「な、何が?」  いちおうとぼけてみる。 「妖精から僕を守ってくれたとき。あたしの、恋人?」 「…………雇い主」  ちょっと不服そうに眉根《まゆね》を寄せたエドガーは、急に馬の歩みを速めた。  本物の馬に乗ることに慣れないリディアは、それだけで驚いて、エドガーの上着をつかんでいる手に力を入れる。 「やだっ、ゆっくり走ってちょうだい! 落ちるってば!」 「正直に答えたらね」  たぶんたいしたスピードではないとしても、リディアには風を切るような感覚だ。 「あれは……、ラナン・シーを追い払うためだけに言おうとしたことよ!」 「そう。じゃあもっとしっかりしがみついてもらおうか」 「意地悪!」  クスクス笑いながら、彼はリディアをかかえ直すように力を入れた。  スピードはゆるめられていないのに、それだけでもう落ちそうな不安感はない。 「意地悪ついでに、このままスコットランドへさらっていこうかな。きみの故郷で駆け落ち結婚ってのはどう?」 「何考えてんのよ!」  あせったのは、エドガーは冗談みたいなことを実行するときがあるからだ。  そう思うと、来たときとは道が違うような気がしてきた。  リディアは急いで首をめぐらす。  月光のもと、影となって浮かびあがるロンドンの街並みが、彼らを迎えるようにせまってきているのが見えると、ほっとしながらも、じきに着いてしまうのが惜しいような気がしていた。  もう少しだけなら、月夜の遠出も悪くはないと思いながら。 [#改ページ] [#挿絵(img/mistletoe_194.jpg)入る] [#改ページ]     きみにとどく魔法 [#挿絵(img/mistletoe_195.jpg)入る] [#改ページ]    (1)忘れたいこと       〈ロンドン・聖歌隊〉  子どもたちの唄うクリスマスキャロルが、冬枯れの木立《こだち》に囲まれた公園にこだました。  少年も少女も、お揃《そろ》いの真新しいコートを身につけ、熱心に唄っている。この日のために練習した、ったないが微笑《ほほえ》ましい歌声が曇《くも》り空にすいこまれていく。  この日は朝から、広場に目立つモミの木の下に、歌を唄う子どもたちとそれに耳を傾ける紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》が集まっていた。 「アシェンバート伯爵《はくしゃく》」  呼びかけられ、エドガーは振り返る。  狐《きつね》の襟巻《えりま》きに真珠《しんじゅ》のブローチを着けた令嬢《れいじょう》が、こちらへ近づいてくるのに目をとめると、彼はやわらかく微笑みかけた。  ふと令嬢は、エドガーの金髪をまぶしそうに見あげ、頬《ほお》を染める。恥ずかしそうに目を伏《ふ》せ、けれど口元はほころばせながら、かわいらしく両手を組み合わせる。 「あの、このたびは寄付にご協力くださってありがとうございました。おかげさまで、養護施設で暮らすあの子たちも、あたたかいクリスマスを過ごせそうです」  心を込めて歌を唄っているのは、親のいない子どもたちだ。そうしてここに集まっている紳士淑女は、クリスマスのための寄付に応じた人々だった。  そう、今日はクリスマスだ。誰もが日ごろの罪を悔いるのか、あちこちで寄付が募《つの》られ、ふだん贅《ぜい》を尽《つ》くしている上流階級の連中も、わずかなお金を出すことで良心を満足させる。  むろん悪いことではない。誰もがクリスマスを心地《ここち》よく過ごせるのだから。 「お役に立てて何よりですよ、レディ・エミリー。むしろ僕は、熱心に慈善《じぜん》活動をなさっているあなたに心を打たれました」 「いえ、そんな……、わたしが子供たちにできることなんてしれていますわ。ときどき訪問してご本を読み聞かせてあげるくらいで。でも、それだけでもわたしを慕《した》ってくれる彼らに、もっと何かしてあげたいと思ったんです」 「聖女のようなかただ」  灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を細め、心底感し入ったように見つめれば、エミリー嬢はますます顔を赤くした。  エドガーは、自分が他人にどう見えるかよく知っている。外見には恵まれているし、貴族らしい態度も教養をちらつかせた話術も心得ている。  初対面で好感を持たない女性はいないと思っているし、そうなるように振る舞うことくらい難しくない。  この令嬢も、知り合って間《ま》がないが、どうやら自分に夢中らしい。と思えば悪い気はしないから、いくらでも愛想《あいそ》よくする。 「あの……、このあとの茶話会《さわかい》、寄っていってくださいます? ちょっとした余興も用意しておりますの」 「ええ、よろこんで」  即答すると、うれしそうに彼女は無邪気《むじゃき》な笑顔を見せた。  隙《すき》だらけな女の子は大好きだ。あとは思いのままだといい気分にさせてくれる。  階級の違う男たちには一瞥《いちべつ》もくれないようしつけられている深窓《しんそう》の令嬢が、相手が貴族だというだけでまるきり無防備になるのが、おかしくもかわいらしいじゃないかと思う。  彼女はエドガーが、アメリカで何をしていたかなど知りもしない。 「あら、アシェンバート伯爵、あなたが恵まれない子どもたちを救うことに興味をお持ちだとは知りませんでしたわ」  割り込んだ声に、エミリー嬢は、はっと夢からさめたかのような顔をした。  現れたのは、薔薇《ばら》の香りを身にまとった艶《つや》やかな貴婦人だ。寒々とした木立の間にいてさえ輝く美貌《びぼう》で人目を引く、社交界の華。  そんな女性の登場に、年若い令嬢は臆《おく》したようにうつむき、小さく会釈《えしゃく》して去っていった。 「僕はもともと、子ども好きなんです」 「まあ、男の子も?」 「ブランウィック侯爵《こうしゃく》夫人、純粋な言葉をねじ曲げないでください。今日はクリスマスですよ」 「純粋に子ども好きなのでしたら、早くご結婚なさることね」 「ええ、相手が決まればすぐにでも」 「それじゃあ、おじゃましてしまったのかしら。今のお嬢さん、ねらってらした?」 「さあ、どうでしょう」  エドガーがとぼけると、彼女は白い手袋に包まれたほっそりした指を、赤い口元に寄せて笑う。何気ない仕草のひとつでさえ、そのへんにいる男の視線を引きつけてやまない貴婦人だ。  そんな彼女が、派手な美貌と女性関係でスキャンダルの的《まと》になっている若い伯爵と言葉をかわしているとなれば、いやでもその場の目を引いていた。  しかしその視線も、キャロルを唄い終えた子どもたちに拍手を向けるためにそらされる。ふたりは人込みから離れるように歩き出した。 「彼女、ポストナー卿《きょう》のエミリー嬢ね。慈善活動に熱心で、潔癖《けっぺき》なほど正しいお嬢さんだわ。きっと、浮気なんて悪徳を見過ごしてはくれませんわよ」 「どちらかというと僕は、やきもちを妬《や》いてほしいほうなので。寛容《かんよう》すぎる妻もどうかと思いますね」 「やきもちですむかしら」 「それが問題です」  エミリー嬢が、こちらを気にしたように目で追っている。気づかないふりをしつつ、エドガーは、侯爵夫人に優雅な笑みを向ける。 「わたしが確かめてあげましょうか? 一瞬で彼女の淡い恋がさめるのか、それともやきもちを妬くほどあなたにのめり込んでいるのかわかるわ」  植え込みのそばで立ち止まり、彼女はエドガーに向き直った。  恋人どうしのように顔を近づけ、ささやく。 「それとももし、あなたの目当ての女性があの子ではないなら、早めに望みはないってことをおしえてあげたほうが親切ではなくて?」 「僕のためですか? むしろ、あなたが愛想を尽かした若い恋人を追い払うためなのでは?」  エミリー嬢のほかにも、エドガーはさっきから視線を感じていた。このところブランウィック侯爵夫人と噂《うわさ》のあった男が、公園の片隅《かたすみ》でこちらを見守っている。  広場の中央で、子どもたちにあたたかいミルクティーとクリスマスプレゼントが配られている、そのにぎやかな嬌声《きょうせい》が響く中、ひとり絶望的なほど不幸な顔つきだ。 「だめかしら」  恋愛をゲームのように楽しんでいる貴族の既婚女性とは、こちらもゲームのようにつきあえるからきらいじゃない。  この場で少しばかり、親しげなそぶりをして、キスのひとつでも見せつけてやれば、あのかわいそうな男は、夫人の寵愛《ちょうあい》が完全に自分から離れたことを悟《さと》るだろう。  ゲームとしてはおもしろい。それに、彼女が遊び相手を求めているのは明白だし、この誘いに乗れば、きっと今夜は退屈せずにすむ。  後腐《あとくさ》れのない美女との、一晩限りの恋。  悪くない。  けれど、こんなことを続けていたら、リディアが帰ってきてくれなくなるのではないだろうかと、ふと思う。  エドガーの婚約者、少なくとも彼が結婚したいと思っている少女は、浮気をしないと誓ってもなかなか信じてくれないし、クリスマス休暇《きゅうか》がほしいと田舎《いなか》に帰ってしまった。  スコットランドで、今ごろ何をしているのだろう。  考えまいとしているのに、考えてしまう。 「せっかくですが、レディ、僕ではご期待にそえそうにありません」 「あら、残念だわ」  さほど残念そうにもなく、彼女は言った。 「ではまたの機会にお願いするわ、アシェンバート伯爵《はくしゃく》」  あっけらかんとしたものだ。だからこういう女性とのつきあいは、浮気ですらないと屁理屈《へりくつ》をつけたいエドガーだったが、リディアが納得してくれるわけはないのだった。       〈スコットランド・妖精岩〉  エジンバラの南にある小さな町、教会に並び建つ牧師館の裏手には、昔から大きな岩があった。  小さいころリディアは、そこでよく遊んだものだった。  先史時代の遺跡だとも聞く、野原にぽつんと置かれた岩は、ここにかぎらず町はずれや丘にもあるが、いちばん家に近かったので、小さなリディアにとってほどよい遊び場だったのだ。  岩のまわりには、いつも小妖精たちが群れていた。そこには、妖精界と人間の世界をつなぐ不思議な力がたまっていて、どうやら岩がそこにできるゆがみを緩和《かんわ》しているらしかった。  はるかな昔、それに気づいた人がいて、ここに岩を置いたのだと思えば、リディアは、自分のような人間は特異なわけではないのだと心をなぐさめることができた。  この世のものならぬ妖精の姿が見えて、彼らとかかわれる妖精博士《フェアリードクター》の能力は、きっと人の世に役立つ不可欠なものなのだと信じられた。  けれどもまだ、妖精を見ることのできる人はとても少ないのだと知る前、リディアは当然のように、妖精たちとたわむれ遊んでいた。  そんなときは、ほんの少し妖精の世界へ踏み込んでしまっているらしく、人の目に見えなくなって、必死になってさがしたと父に聞かされたことも何度かある。  母ならすぐに見つけてくれたのに、と幼い彼女は不思議に思ったものだったが、フェアリードクターだった母と自分には見える世界も、父や町の人たちには見えないのだと気づいたのは、母が亡くなって何年か経って、かなり分別《ふんべつ》がつくようになってからだった。  そんなことを思い出し、リディアは今日、久しぶりにここを訪れた。クリスマスの朝、父とふたりで教会を訪れ、礼拝《れいはい》を終えたあと、牧師館に寄ったついでだった。  妖精たちは眠っている時間だからか、それともクリスマスだから身をひそめているのか、小さな姿は見あたらない。岩の後ろへ回り込んで、リディアはそっと寄りかかる。  やっぱり落ち着く。ここにいると、自分がこの世界に受け入れられていると感じられる。  人間界も妖精界も含んだ大きな世界に包み込まれ、悩み事なんてささやかなものに思えてくる。  悩み事なんて……。  リディアの悩みの根源、薬指につけたムーンストーンの婚約指輪は、いつでもいやでも目に入る。エドガーの気まぐれで婚約者にさせられたまま、はずれなくなってしまったからだ。  妖精の魔力で、他人の目には見えなくなっているはずだが、どうせなら自分にも見えなくなるようにしてほしかったと思う。  あたしは、エドガーの恋人なんかじゃないから。  彼とロンドンにいたときは、この岩のことを忘れるほど、フェアリードクターとしての自分が世の中に受け入れられていると感じられた。そんなことも忘れたい。 「おい、誰もいないぞ」  話し声が聞こえ、リディアははっと首を動かした。いつのまに人が来たのか、岩の向こうがわにふたり、若い男が立っているのが見えた。  岩陰にいるリディアのことが、向こうからは見えないらしい。それとも、すでに境界に踏み込んでいるから見えないのだろうか。 「おかしいなあ。このへんにいるはずだから呼んできてくれって、カールトン氏は言ってたんだけど」  誰かしら、とリディアは首を傾《かたむ》げる。  どうやらふたりは、父にたのまれてリディアをさがしに来たらしいが、町で見かけない人たちだった。  リディアの父は、牧師館にいるはずだ。牧師は父の友人のひとりで、ちょっと立ち寄るつもりが長話になりそうだったので、リディアは散歩に出てきたのだ。 「なあ、そのリディアってどんな娘? 美人か?」  ひとりがそう言ったので、なんとなく彼らの前に出て行きにくくなった。 「うーん、そうでもないんじゃないか?」  は? とリディアは、知らず眉根《まゆね》を寄せている。  しかし、そう言ったもうひとりの若者は、リディアのことを知っていることになる。彼女はもういちど、そっと向こうをのぞき見た。 「けどアンディ、もう何年も会ってないんだろ? 幼なじみの女の子に再会したら、きれいになってるかもしれないって期待くらいするだろ、ふつう」  アンディ? ということは、牧師一家の三男だ。 「幼なじみったって、そんなに親しいわけでもなかったし」  そう気づいてよく見れば、わけもなくすべてがつまらなさそうな顔つきや、とつとつとしたしゃべり方にはおぼえがあった。  遠くの寄宿《きしゅく》学校へ入ったとかで、町で姿を見かけなくなってから久しい。これまでもクリスマスくらいは帰ってきていたのかもしれないが、わざわざ会うような間柄《あいだがら》でもなかった。 「彼女は変わり者でさ、町の子たちとはあんまり遊ぼうとしなかったな」 「変わり者って?」  見知らぬリディアに興味を持っているらしいもうひとりは、目鼻立ちのはっきりした、快活そうな若者だ。 「妖精が見えるって言い張るんだ。彼女の母親も辺鄙《へんぴ》な土地の出身で、魔術師みたいなことやってたって」  魔術師じゃなくて、妖精博士《フェアリードクター》よ。 「で、美人になってたらどうするよ?」 「どうするって?」 「男ばっかりの学生生活がまだ続くんだぞ。女の子と接する機会は休暇《きゅうか》の間くらいじゃないか。さっき礼拝で見かけた娘たちは、ちょっと好みかなと思えばみんな婚約者がいるって言ってただろ。どこでも美女はとっとと相手が決まっちまう。でもその子は、おまえの言うとおりなら、きっとまだ売約済みじゃない。アンディ、興味がないなら俺に譲《ゆず》れ。美人だったからって気が変わったってのはナシだぞ」 「ガイ、話を聞いてなかったのか?」 「ちょっとくらい頭が弱くたって、かわいけりゃ許容範囲だ」 「でも、すごく気が強いよ」 「バカで気が強い? ますますいいな」 「そんなあまいものじゃないって。ある家に不運が続いたときとか、門の前の木を切ったからだって言いだしたりしてさ。ちょっと気味悪いだろ? 地主も一目《いちもく》置くカールトン家の娘だから、表立って非難を浴びたりしなかったけど、そんなこんなでちょっと迷惑な女の子なんだから」  ふたりのやりとりに、いいかげんに腹が立ってきたリディアは、岩陰から飛び出していた。 「アンディ・ミラーズ! 言っておきますけど、あなたに迷惑をかけたおぼえはないわ!」  びっくりした顔で、ふたりはリディアの方を見た。  アンディをにらみつけたついでに、もうひとりもきつくにらんでおく。 「それにあたしは、頭が弱いバカ女じゃありませんからっ!」 [#改ページ]    (2)思い出すこと       〈ロンドン・クリスマスクラッカー〉 「なんて平和なクリスマスなんだろう。なあレイヴン、そう思わないか?」  ポストナー邸《てい》へ向かう途中、馬車の窓から外を眺《なが》め、エドガーはつぶやいた。隣にいる彼の従者、褐色《かっしょく》の肌の少年は、「はい」といつもの淡々《たんたん》とした口調《くちょう》で答えた。  街角の家々は、柊《ひいらぎ》や宿り木で飾られている。商店街のショーウィンドウも、それをのぞきながら歩いている人々も、いつになく明るい笑顔を浮かべていて幸福そうだ。  エドガーにとってこんなクリスマスは、両親が殺された九年前の事件以来のことだった。  記憶にある、英国での最後のクリスマスは、荘園邸宅《マナーハウス》の広間に据《す》え付けられた大きなツリーと、きらきらした飾りつけ。無数の蝋燭《ろうそく》がともされ、その根元には、派手なリボンや花に包まれたプレゼントの山。  ジンジャークッキーやミンスパイ、七面鳥のローストにクリスマスプディング。カッティングガラスの大きなボウルからは、フルーツを煮込んだパンチのあまい香りが漂《ただよ》ってくる。  それらを囲むのは、家族や親しい人たちの笑顔。ふだんは気難しい父さえ、笑っていたような気がする。  音楽を奏《かな》でる楽隊でも、人形劇の舞台でも、華やかなものすべて、今のエドガーなら用意することができる。  けれどあの場にいた人たちは、もう誰もいない。あの風景を記憶しているのはエドガーだけだ。 「去年のクリスマスは、最悪だったな」 「……そうですね」  エドガーは監獄《かんごく》の中にいて処刑|寸前《すんぜん》だったし、レイヴンはどうにかしてエドガーを助け出そうと奔走《ほんそう》していた。  たくさんいた仲間たちの中で、生き残っていたのはもうレイヴンとアーミンだけだった。 「そう考えると信じられないくらいだ。これは現実なのかな」  そんなふうに感じるのは、リディアがそばにいないからだろう。  エドガーが伯爵《はくしゃく》となるために力を貸してくれたリディアがいないから、自分の立場がふと幻《まぼろし》のように思えるのだ。 「リディアという女の子は、本当にいるのかな。彼女と過ごしたことが、ぜんぶ僕の妄想《もうそう》だったらどうしよう」 「現実です、エドガーさま」  レイヴンにきっぱり言われ、少し安心する。けれどもエドガーは、このままリディアが戻ってこない可能性を考えていた。  スコットランドにいれば、彼女はエドガーのごたごたに巻き込まれることはない。彼の宿敵との戦いにかかわって、危険な目にあうことはなくなるのだ。  アシェンバート伯爵家の顧問《こもん》フェアリードクター、という立場をはずしてやればいい。不当解雇でも文句も言わず、リディアは受け入れるだろう。  もともと、彼女にとっては不本意なところを無理やり雇ったようなものだから。  エドガーは、どうにかしてその決意をしなければならないと思い続けている。 「なあレイヴン、これから訪問するポストナー家のエミリー嬢《じょう》、僕に気があると思うだろう?」  話を変えてみたが、リディアのことが頭から離れたわけではなかった。 「私にはよくわかりません」 「笑顔がかわいいと思わないか?」  無表情のままエドガーを見るが、レイヴンはかなり困惑《こんわく》しているようだ。特異な戦闘能力を持って生まれてきたために、殺人兵器に仕立てられていた彼は、自分の感情を理解することも、それを表現することもまだ難しいが、よく見れば微妙な顔つきの変化はある。 「やさしい女の子だよ。貴族の令嬢にしては高慢なところがないし」 「エドガーさまが気に入っておられるなら、私が意見することではありません」 「でもさ、おまえが気に入らない女性を、伯爵家に入れるわけにいかないじゃないか」 「それは、ご結婚のお相手としてですか?」 「たとえばの話さ。だけど女性を見る目を養っておいて損はないよ。女の子はいくらでもいて、出会いも無数にある。いつかは僕も、誰かと結婚するだろうし、おまえの意見を聞きたいと思うかもしれない」  それにこのごろはレイヴンも、十代の少年らしい、純粋な一面をのぞかせる。どうやら、エドガーのうわついた言葉に気分を害したようだ。 「でしたら私は、リディアさんがいいです」  どうして彼女を迎えに行かないのかと言いたかったのだろうが、エドガーに忠実な彼はそれ以上は口にしなかった。  リディアは妖精が見えるから、レイヴンの血筋《ちすじ》にまつわる精霊の存在を理解できる。  彼女は、レイヴンがエドガー以外にはじめて認めた人間だから、このままリディアが離れてしまうのはつらいと思っているのかもしれない。 「おまえがプロポーズするなら、リディアはまじめに考えるかもね」  エドガーは茶化《ちゃか》すしかなかったが、レイヴンはきまじめに腹を立てた様子だ。 「私は、お仕《つか》えする女性ならという意味で」 「わかってるよ」  ちょうど馬車が、ポストナー邸の前で止まった。  むっとしたまま、といってもいつもそんな表情だが、レイヴンはドアを開けてエドガーを馬車から降ろす。 「行ってらっしゃいませ」  目を合わせようとしなかったから、やはり怒っているのだろう。  ひとつの恋が終われば、別の恋が始まる。  なんとなくすれ違ったり、気持ちが変わってしまったり、うまくいかない恋なんていくらでもあるし、女の子はひとりだけじゃない。  魅力的な女性がいて、楽しく過ごせるなら、リディアがいないことも気が紛《まぎ》れる。そのうちに、リディアのことを友達として考えられるようになるだろうか。  そうだったなら、リディアのためにもいちばんいい。  だからエドガーは、この茶話会《さわかい》も積極的に楽しもうとしていた。  高貴な紅茶の香りと談笑の合間、ピアニストの演奏に耳を傾け、詩人がクリスマスのために読み上げた新作についてあれこれと感想をかわす。  にぎやかな会話の輪の中、エミリー嬢の従姉《いとこ》だという女性がなかなかの才女で、話も合ったからつい盛りあがる。  そうしているうち、エミリー嬢が割り込むように現れて言った。 「アシェンバート伯爵、こちらでクラッカーゲームをしますの。いらっしゃいません?」  迷った末に思い切って誘いに来たという様子がありありとわかるから、エドガーはつい微笑《ほほえ》む。  正直なところ彼は、女性が自分の気を引こうと必死になっているさまが好きだ。それがきらいな男はいないだろうけれど、機会に恵まれる男はかぎられていると思う。  だったら、そんな機会を存分に堪能《たんのう》したっていいじゃないか。 「エミリー、そんな子どもっぽいゲーム、まだやっているの? 伯爵をお誘いするようなものじゃないでしょう」  従姉の言葉に、彼女は赤くなりながらも頬《ほお》をふくらませた。 「人数が足りないんですもの」 「僕はかまいませんよ、レディ。クリスマスなら、クラッカーゲームをしないわけにはね」  ほっとしたようにはにかんで、彼女はエドガーと連れだって歩き出した。  隣室《りんしつ》には年若い男女が集まっていて、色とりどりの包み紙にくるまれたクリスマスクラッカーが配られているところだった。  隣同士がクラッカーの端を手に持ち、メリー・クリスマスのかけ声とともにいっせいに鳴らす。  破れた包みの中身はボンボンキャンディだ。  同じ色のキャンディを引き当てた男女がペアになって、部屋のどこかにそれを隠す。みんなが隠し終えたら、いっせいにキャンディ探しがはじまり、最後まで見つからなかったペアが勝ちという、一見たわいもないゲームだが。 「エミリーは、チェリーレッドね。同じ色を引いた男性は……」  エドガーは、さっと彼女の前に進み出、微笑みかけた。 「よろしく、エミリー」  まあ、とはしゃいだ声をあげて驚いた彼女は、このうえなくうれしそうだ。  エドガーがちらりと視線を動かせば、別の青年が何か言いたげにこちらを見ていた。  本当にチェリーレッドを引いたのは彼だろう。けれどじっと目を合わせると、そのまま彼は口をつぐんだ。  エミリーとのペアを譲《ゆず》れという意思《いし》表示はすんなり通じたようだ。わざわざ主張して、あきらかによろこんでいる女性にがっかりした顔をされたいと思う者はいないだろう。  女の子たちは知らないだろうが、クラッカーゲームで男どもはよくこの手を使うのだ。 「ペアが決まった人から順番にどうぞ。隠し場所はつきあたりのドローイングルーム、その中ならどこでもけっこうです」  エミリー嬢の手を取って、エドガーは廊下《ろうか》へ出る。ふたりになったところで、さっそく彼女にささやきかける。 「僕は運がいい。きみと同じキャンディが当たるように祈っていたんだ」 「わたしも……、だから本当にびっくりしたんです。いつも、ついてないものだから」 「おや、いつもは誰とのペアを祈っていたのか、気になるな」 「えっ、いえ、……その、何年か前のことですわ。子どものあこがれみたいなもので……」 「では初恋はまだ?」 「それは……」  媚《こ》びるようにこちらを見る。 「これから?」 「そうかもしれませんわ」  ふたりきりになったら、あまり好意を隠そうとしなくなった。これはもうエドガーにとっては、好きにしてくれと言われているようなものだ。  そもそもこのゲームは、キャンディを隠すことにかこつけて、しばし男女がふたりきりになれるからこそ好まれている。  たどりついたドローイングルームの戸口も、ほかの部屋と同様、柊《ひいらぎ》と宿り木で飾られていた。  中へ足を踏み入れながら、エドガーは言った。 「知ってる? 今夜は、宿り木の下で求められたキスを拒《こば》んではいけないって」 「……ええ、でもまだ昼間だわ」  はにかみながらも、エドガーが立ち止まると彼女も足を止めた。  黙って見つめる。頬に手をのぼせば、彼女は目を閉じた。  ずいぶん簡単だなと思う。  いや、ふつうはこうだ。リディアが難しすぎるのだから。  などと考えれば、急にリディアのことが気になりだした。  今夜宿り木の下で、リディアに会うかもしれないのは誰だろう。遠く離れたロンドンにいる自分でないのはたしかだ。  でも彼女は、故郷の町には親しい友人はいないと言っていた。妖精たちと、父親のカールトン教授とだけで過ごすクリスマスだから、誰かに唇《くちびる》を奪われるなんてことはないはずだ。  けれど、今エドガーが手近な少女に向けているちょっとした遊び心を、誰かがリディアに向けたりしないとはかぎらない。 「キャンディ、どこへ隠す?」  ふざけたふりをして、耳元でそうささやくと、目を開けたエミリー嬢《じょう》は、一瞬|戸惑《とまど》ったようだったが、すぐに察して微笑んだ。 「意地悪なかた。からかうなんて」 「神聖なクリスマスに、不埒《ふらち》な気持ちはよくないと思ったんだ」  言葉どおりに受け取って、彼女はエドガーを紳士《しんし》的だと信じたようだった。  ここでがまんしたからといって、何の意味があるだろう。リディアの近くにいるかもしれない誰かが、同じように役得を放棄《ほうき》するわけではない。  けれど、バカげていると思っても、もうエドガーは、疑似《ぎじ》恋愛のゲームを楽しめなくなっていた。  うそだらけの自分だ。  アシェンバート伯爵という名も、経歴も、紳士的なそぶりもうそ。それを鵜《う》呑《の》みにしているこの少女は、うその口説き文句に気づかない。  本当のエドガーを知ったら、彼女はおびえ逃げ出すだろう。エドガーの痛みも苦しみも、背負ってきたものも、他人が察するのは容易なことではない。  本当のことを知っても逃げ出さずに、この痛みに触れてきたのはリディアだけだ。だまされていたと知っても、あの純粋な少女は、せいいっぱい崖っぷちの男を救おうとしてくれた。  そばにいてほしいのはリディアだけだ。うそつきな、本当のエドガーを知っているからこそ、彼の求婚を信じてくれないリディアだけなのだった。       〈スコットランド・クリスマスツリー〉  ガイ・ナッシュという名の彼は、アンディと同じ寄宿《きしゅく》学校でのルームメイトらしかった。  クリスマス休暇《きゅうか》に家族のもとへ帰らず、友人の家へ遊びに来ている事情をリディアは知るような立場にないが、複雑な家庭環境らしいとだけ、帰宅後父に聞かされた。  だからって、人のことバカ呼ばわりするってどういうこと?  リディアは不機嫌《ふきげん》な気分を引きずったまま、鵞鳥《がちょう》の包みを手に、町から少し離れた川縁《かわべり》まで歩いていく。  リディアが近づいていくと、不意に水面が波立って、漆黒《しっこく》の馬が姿を現した。 「よう、最悪な日だな」  水棲馬《ケルピー》は、うっとうしそうに水面から顔だけ出してそう言う。 「クリスマスよ。あたしたちにとってはステキな一日なの」 「俺にとっちゃ最悪な日だ。鐘の音がうるさいし、町へ近づこうものなら宿り木だの柊だの魔よけだらけだ」  |魔性の妖精《アンシーリーコート》であるケルピーにとっては、何もかも不愉快《ふゆかい》であるらしい。 「でも、クリスマスプレゼントを持ってきたのよ」  リディアは、鵞鳥の包みを差し出した。  人の姿になって、岸辺のリディアのところまであがってきたケルピーは、無造作《むぞうさ》に受け取る。 「死んでるじゃないか。どうせなら、生きたまま喰《く》いたかったな」 「文句言わないの」 「ああ、とりあえずもらっとくよ。じゃあな」  めずらしくもあっさり、川へ引き返していく。よほどケルピーは、クリスマスの空気が気に入らないらしい。  なんだ、少しおしゃべりでもしようかと思ったのに。  ちょっとがっかりしながら、リディアはまたひとり道を戻りはじめる。  クリスマスはステキな一日。でも毎年、妖精たちが引きこもってしまうから、リディアにとっては少し淋《さび》しい。  |善良な妖精《シーリーコート》たちも、自分たちの棲《す》みかからあまり出てこないのだ。  結局リディアは、気分転換ができないまま、また自宅へ帰ってきた。  裏口からキッチンのそばを通れば、パイを焼くいい匂《にお》いがする。カールトン家のクリスマスディナーのために、料理女が忙しく立ち回っている。  プディングを入れた大鍋から、白い湯気が立ちのぼり、キッチンをまっ白にくもらせている。  ふだんは留守にしているカールトン家だから、この数日ほど通いで来てもらっている家政婦や料理女は、自分の家のクリスマス料理も一緒に用意している。そのために、父娘ふたりの食事とは思えないほど大量の料理ができあがっていく。  まるで盛大なパーティの準備でもしているかのようだ。  不思議なもので、おいしそうな匂いというものは人の気持ちをおだやかにするらしく、単純ながらリディアは元気になれるような気がしていた。 「リディア、帰ったのかい?」  父の声がした、応接間のほうへと足を向ける。 「ええ父さま、ただいま……」  しかし戸口で思わず足を止めたのは、部屋の中に、父とは別に若い男の姿を見つけたからだった。  ガイだ。  リディアのいやな気分の元凶《げんきょう》は、こちらを見て無邪気《むじゃき》に「おかえり」などと言った。 「な、なんなのあなた。何しに来たのよ」 「クリスマスツリーを運んできてくれたんだよ」  父が指さした方向、部屋の中央には、天井までとどきそうなモミの木が立てられていた。 「カールトンさんの家はお嬢さんがひとりだけだから、力仕事のツリーは準備してないだろうって聞いたんだ。だから牧師館にあまってたのを持ってきた」  たしかにカールトン家では、ツリーの準備をしなくなって久しい。リディアひとりでは無理だし、父はほんの二日前に、ようやく仕事を切り上げてロンドンから帰ってきたところなのだ。 「早くしないとクリスマスが終わっちゃうからな。飾りつけ、きみも手伝ってくれよ」  事情はわかったけれど、手伝えって? 何様よ。 「家の中にツリーがあるのは何年ぶりかな。リディア、華やかなクリスマスになるな。おまえからもお礼を言いなさい」  能天気《のうてんき》な父にそう言われても、リディアはまだむっとしていた。 「いや、礼なんていいですよ」 「ツリーの飾り、物置小屋にしまってたはずだよ。ちょっとさがしてこよう。リディア、ナッシュさんにお茶をお出しして」  たぶん父は、この町ではリディアに下心を持って近づく男はいないと思っている。たしかにこれまで、変わり者と評判のリディアに言い寄る人などいなかった。  だからむしろ、親しい人間の友達ができなかったリディアのために、ガイには仲良くしてやってくれと言わんばかりの態度だ。  さっさと父が行ってしまうと、むっとしたまま突っ立っているリディアをなだめるように、ガイは微笑《ほほえ》みかけた。 「さっきはごめん。きみのこと悪く言うつもりはなかったんだ。つまりこれは、お詫《わ》びの気持ちさ」 「ツリーをどうもありがとう。牧師のミラーズ家のお客さまに、これ以上手伝ってもらうわけにいきませんから、あとはあたしがひとりで[#「ひとりで」に傍点]やりますわ」 「あ、やっぱり怒ってる? でもさ、何だかんだ言ったのはアンディの奴で、俺じゃないだろ? きみがどんな娘か知らなかったから、相づちうっただけじゃないか」  それはそうだけれど。 「アンディってさ、女を見る目がないと思ってたけど、子供のころからそうだったんだな。こんなかわいいご近所さんがいるのに、仲良くしようとしなかったなんてバカだよな」  こいつ、調子よくない?  誰かさんみたい、とリディアは思う。 「友達の忠告を信じないの? 本当にとんでもない女かもしれないのよ」 「だったら、どんなふうにとんでもないのさ。興味あるし」 「あなたの好奇心を満たす義理はないわ。あたしはキリンや象じゃないの」 「そういうつもりじゃ……、いやあ、まいったな」  ちょっと困った様子だ。このへんは、口先だけで誰でもまるめこむ、抜け目のない誰かさんよりはかわいげがあるかもしれない。 「たださ、俺の目で、きみがどんな子か確かめたいってだけなんだ」 「だいたいアンディの言うとおりよ」 「妖精が見えるってこと? 想像力が豊かなのはいいと思うけどな」  想像力じゃないんですけど。 「あ、そこ踏まないで」  近づいてこようとした彼は、驚いて足を止めた。 「妖精が出入りする節穴があるの」 「……へえ」  やはり、さすがに反応に困っている。何だかんだ言っても、こんなリディアを受け入れられる人のほうがめずらしいのだろう。  それは彼が悪いわけではないから、不機嫌にし続けるのももうしわけなく思えてきたリディアは、彼に椅子《いす》を勧めた。 「なあ、のどかでいい町だよな」  気を取り直したように彼は言った。 「明日、地主さんとこのパーティに行く?」 「行かないわ」 「なんで?」 「パーティはきらいなの」  言いながら、ロンドンでエドガーに連れまわされた数々のパーティのことを思い出す。  たいていの場合、エドガーはリディアを楽しませてくれた。  上流階級《アッパークラス》の中には、中流上《アッパーミドル》の少女なんてと卑下《ひげ》する感覚を持っている人も少なくないだろうけれど、エドガーのつくり出すその場の空気は、皆にリディアを好意的に見せることができた。  でも、この町に帰ってくれば、リディアは魔法が解けたシンデレラのようなもの。パーティなんて似合わないのだ。 「変わり者だと思われてるから? だったらいっしょに行こうぜ。俺よそ者だし、でも俺以外のみんなは知り合いばっかりのパーティなんて気が引けるなと思ってたんだ。エスコートさせてよ」 「あなたも変わり者扱いされるわよ」 「俺さえよければいいってこと?」  リディアは戸惑《とまど》った。  エドガー以外の男の人に、パーティへ誘われるなんて思いもしなかった。 「なあ、行こうよ」  こういうの、エドガーが知ったらどう思うのかしら。なんて、考えること自体どうかしている。  けれども、どうしよう、とリディアはぐるぐる思い悩む。 「ガイ! 遅いから迎えに来ちゃったわ!」  そのとき、明るい声が耳に飛び込んできて、リディアは我《われ》に返った。  部屋へ駆《か》け込んできたのは、リディアよりひとつ年下の、アンディの妹だった。 「ツリーを届けるだけって言ったのに、何を話し込んでるの?」 「ああすまないね、私が引き止めたんだよ」  すぐあとに来た父が言う。 「まあ、カールトンさん、困ります。ガイとは昼食の前に、チェスの決着をつけなきゃならないのよ」 「まいったな。負けそうだから逃げてきたのに」  頭をかくガイの腕を引き、早く帰ろうと促す。そして彼女は、ちらりとリディアに挑戦的な目を向けた。  なんだ、エスコートすべき女の子がいるんじゃないのとリディアは思う。  ちょっと迷ったりしてバカみたい。  リディアは、ガイの帰宅を促《うなが》すように立ちあがった。 「さよなら、ミスター・ナッシュ。よいクリスマスを」  何か言いたげに、彼は口を開きかけたけれど、リディアはさっと背を向けた。  少女に腕を引かれて、あわただしくガイが出ていってしまうと、父がおかしそうに言った。 「男前は忙しいなあ」 「男前? そうかしら」 「リディア、アシェンバート伯爵とくらべちゃいけないよ」 「えっ、べつにくらべてないわ!」  あわてて否定するが、たしかにエドガーを見慣れていると、男性をハンサムだと思うことが少なくなったかもしれない。  でも、いくらハンサムでもエドガーみたいな女たらしは問題外だわ。  リディアはそう自分に言い聞かせる。  休暇《きゅうか》を取って帰ってきてから、何度もそう言い聞かせている。  好きになってしまいそうだなんて認めたくないから、ほんの少し彼を信じてみたくなった生まれたての淡い気持ちを、しっかり封印するために。 「それより父さま、ツリーの飾りは?」 「ああ、これだよ。なつかしいだろう、リディア。おぼえてるかな」  父がテーブルに置いた箱を、リディアはそっと開けてみた。  白いレース編みのツリー飾りがいくつも入っていた。雪の結晶《けっしょう》や、星や柊《ひいらぎ》や、様々な形に編まれたものだ。 「おぼえてるわ。母さまが編んだのよね」  繊細《せんさい》なレースの白が、常緑樹の濃い緑を雪のようにやさしく飾っていたことを思い出す。派手ではないけれど、あたたかい愛情がこもっていた。  仕上げに蝋燭《ろうそく》を灯《とも》されたツリーは、魔法のように美しかったのだ。リディアは、母のひざの上でうっとり眺《なが》めたものだった。  ガイが持ってきてくれたツリーのおかげでステキなクリスマスになりそうだ。  明日になったら、素直にお礼を言おう。そう思えた。 「先ほどは、妹がたいへん失礼をしました」  そう言って、牧師の息子、アンディが訪ねてきたのは、ガイが去ってしばらくしてからだった。 「ああ、いやいや、こちらこそ引き止めてもうしわけなかったよ」  応対する父の声を聞きながら、リディアは窓の下に、妖精たちへのクリスマスプレゼントを埋《う》めているところだった。  玄関からは、垣根《かきね》にじゃまされて、窓の下に座り込んでいるリディアの姿は見えないだろう。父とアンディの、とりとめもない世間話が聞こえてくるが、リディアは黙々と、植木の間のやわらかい地面に、スコップで小さく穴を掘った。  銀貨とクルミを、そこに入れておく。  クリスマスのしきたりには、妖精たちがきらう魔よけのいくつかもあるけれど、これは人の習慣で、敵意はないのよというしるしに。 「おいリディア、いい匂《にお》いがしてきたな」  いつのまにかそこに、灰色の長毛猫が二本足で立っていた。朝から姿を見かけなかったが、食事の時間には必ず帰ってくる。 「おかえり、ニコ。もうすぐ七面鳥が焼けるわ」 「おれはミンスパイが楽しみなんだ。たっぷり食べてもいいか?」 「もちろんよ」  食い意地が張っているから、妖精のくせに、食べ物がたっぷりのクリスマスが大好きなニコは目を細めた。 [#挿絵(img/mistletoe_229.jpg)入る]  人間のクリスマスにつきあってくれる妖精は、彼くらいのものだ。  そんなニコのおかげで、カールトン家の父娘だけのクリスマスが、いくぶんにぎやかなものになっているわけだが、食卓でナイフとフォークを使う猫が加わっているとなると、容易に他人を招待できないのもたしかだった。  もっともリディアは、父が留守のクリスマスでさえ他人を呼びたいとは思わなかったし、静かな食事が好きな父も、考えたことはないだろう。 「そういやあの牧師の息子さ、変な奴だよな」  玄関から聞こえてくる話し声に、耳を動かしながらニコは言った。 「変ってどうして?」 「あいつが妹に、ガイって奴は今ごろカールトン家の娘を口説《くど》いてるんじゃないかって告げ口してたんだ。今すぐ連れ戻してきた方がいいぞってね」 「ニコ、立ち聞きしてたの?」  不本意だというように、彼は灰色のしっぽを左右に動かし胸元で腕を組んだ。 「そんなつもりなくったってさ、おれたち妖精の姿が見えない連中は、勝手にそこでしゃべってんだからしかたないだろ」  たしかにそうだ。 「ガイがあたしに興味を示すのは、単なる好奇心よ。だから、彼のためにも妹のためにも、アンディはガイがうちに入《い》り浸《びた》らないようにしたかっただけでしょ」 「だったらなんで、わざわざ失礼を詫《わ》びに来るんだ?」 「父さまの手前、じゃない?」  とにかく彼は、子供のころからそつなく、大人に�いい子�だと思わせるのは完璧《かんぺき》だった。 「そこらへんがわかんねえんだよ。結局奴は、個人的にあんたが苦手なだけだろ。なのに面と向かって悪口言う連中よりたちが悪いのは、昔から教授や周囲の大人には、そんなことおくびにも出さないってとこだ。なのに子供どうしの間じゃ、裏であんたのこと変わり者って言いふらしてたんだからさ」  昔から、ニコがそういうことを聞きつけては教えてくれるから、リディアはアンディが苦手になったのだ。  でなければ、好かれてもいないがきらわれてもいない、無関心なひとりだと思っていたことだろう。  けれども、アンディがリディアを苦手なのは、わからないでもない。  初対面が最悪だった。  小さいころから彼は、牧師の家に生まれたせいというよりは性格的なものだろうが、悪魔の誘惑《ゆうわく》と堕落《だらく》の罪深さを強迫観念《きょうはくかんねん》のように怖れていた。そんなおり、子供らしいいたずらをしたことが親にばれそうになった彼は、うそをついた罪悪感《ざいあくかん》としかられたくないという誘惑を戦わせていた。  悩めるアンディは、裏庭の先の野原へ出て、石の遺跡に近づいた。ところがそこにリディアがいて、悪いことをした少年に対し、いきなり怖い顔で呪《のろ》いをかけようとしたらしい。  リディアにしてみれば、妖精たちと遊んでいたところへ、アンディが踏み込んできた。ダンスの輪を蹴散《けち》らされた妖精たちが、アンディによじ登ってあちこちつねろうとしたものだから、彼らをしかったつもりだった。  子供だっただけにアンディは、妖精につねられた痛みを感じたようで、おまけにリディアのまわりをはねる茶色っぽい影も見えていたらしい。  リディアを魔女だと思い込み、おそろしくなった彼は、神に許しを乞《こ》い泣きながら逃げ帰っていったのだった。  いったいいくつになるまで、リディアを魔女だと信じていたかは知らないが、礼儀正しく落ち着きのある少年だと大人受けのよかった彼にとっては、同じ年頃の少女に怯《おび》えて逃げ帰ったという事実は容認しがたく、いっそ魔女であってくれと思っていたのではないだろうか。  同時に、リディアのことをいかれた変わり者と考えることで、魔法の力を怖れることはないと信じることにしたらしい。  だから自分の友達が、リディアと接するのも好まず、何かにつけリディアのいかれ具合を吹聴《ふいちょう》した。  リディアへのいたずらラブレターを友達に書かせたのもアンディらしい。 「とにかくあたしがきらいなんだから、しかたがないわよ」  リディアは立ちあがった。  玄関先の話し声がやみ、ドアの閉まる音がしたので、アンディは帰ったと思い込んだからだった。 「それ、何かのまじない?」  ところが、彼はそこにいた。植え込みの向こうから、リディアが埋め戻した地面を不審《ふしん》げに見おろしていた。 「……ええ、そうよ」  今にも胸元で十字を切るんじゃないかと思うほど、彼は眉《まゆ》をひそめて地面を見つめた。 「きみ、誰かとしゃべってなかった?」 「妖精よ、文句ある?」  ニコはすでに四つんばいになって、猫のふりをしたまま素早く行ってしまったから、リディアはやけになって言った。  アンディは、侮蔑《ぶべつ》と憐《あわ》れみのまじった目をこちらに向けた。 「妖精か。相変わらず成長してないんだね」 「あなたも、相変わらず、人の悪口ばかり言ってるのね」  むっとしたのか、彼は少し黙った。この隙《すき》にさっさと去ろうと思ったが、すぐまた彼は口を開く。 「ガイの言うこと、本気にしないほうがいいよ。あいつ、調子いいっていうか、誰にでもああなんだ」 「あたしじゃなく妹さんに言ったら?」 「……まあそうだけど、きみのほうが、そういうのに慣れてないだろうと思ったから」  は? 言い寄られるのに慣れてないから? すぐ本気にするだろうってこと?  頭にくるというよりも、唖然《あぜん》としながらリディアは彼を見た。  なんでこいつに、こんなこと言われなきゃならないの?  たしかに、そうかもしれないけど。  慣れていないから、エドガーには振り回されっぱなしで。  でも、本気にしちゃいけないってことくらい、言われなくてもわかっている。  わかっているくせに本気にしそうになってしまったから、怖くなったリディアは休暇《きゅうか》なんて言いだして、スコットランドへ逃げ帰ってきた。  当然のようにリディアの手を取り、髪に唇《くちびる》を寄せ、あまい言葉をささやく。やさしく見つめて微笑《ほほえ》み、隙あらば抱きよせようとする。  あそこまで徹底していたら、ちょっと本気にしてしまいそうにもなるけれど、二言三言話したくらいでうぬぼれたりしない。  信じてみたいなんて一瞬でも思ってしまうような人が、そうそういるわけがない。  エドガーのほかには……。  リディアは無意識に、ムーンストーンの指輪に目を落としていた。  エドガーが彼女の指にはめた。そうして、彼にしかはずせない婚約指輪になってしまった。  淡く輝いて見えるそれが、遠く離れていても日常から消し去ることができないエドガーの存在を、リディアに意識させ続けている。 「ご心配無用よ。あたし、おつきあいしてる人がいるの」  アンディは、口を開けたまま目を見開いた。  どうしてそんなに驚いてるのかしらと思い、やがて自分が何を言ったのか、ようやく意識にのぼったリディアは、一気に顔が赤くなるのを感じながらうろたえた。 「あの、ええとおつきあいっていうか、まだ、そう、申し込まれただけで……」 「本当に?」  リディアのあわてた様子に、逆にアンディは落ち着きを取り戻したようだった。どうやら疑われている。口からでまかせではないのかと。 「えっ? ええ、ほ、本当よ。その、……ロンドンで知り合った悪党……じゃなくて、とにかく本当なの!」  ますます彼は、疑わしそうにリディアを見た。 「見栄張ってない?」  やっぱり嫌味《いやみ》なやつ。 「うそじゃないわ!」  リディアはついムキになった。エドガーがどういうつもりかはともかく、プロポーズされたのは本当だ。 「ふうん、そりゃよかった。ガイにも教えてやらなきゃね」  どう考えても信じていない口ぶりで言い捨て、アンディは帰っていった。  情けない気分だけが、リディアの胸に残る。  うそじゃないかもしれないけれど、やっぱり見栄には違いない。  エドガーはリディアの恋人ではない。あまい言葉もプロポーズも、本気の恋を忘れるためかもしれないのだから。  じゅうぶんわかっていながら、どうしてあんなことを言ってしまったのか、自分でも信じられなかった。 [#改ページ]    (3)心に願うこと       〈ロンドン・クリスマスディナi〉 「旦那《だんな》さま、お客さまがおそろいになりました」  午後二時、書斎《しょさい》に現れた執事《しつじ》が告げた。  書きかけの手紙が気に入らず、まるめて捨てると、エドガーは顔をあげた。 「ディナーの準備はできております。いつでもはじめられますが」 「なあ、トムキンス。客観的に見てさ、リディアは魅力的な女の子だと思うよね?」  主人が女性に関して唐突《とうとつ》なことを言うのにも、すでに慣れきった執事は戸惑《とまど》いもしない。ずんぐりした体を精いっぱいのばし、姿勢を正して答えた。 「はい、思います」 「もてないとリディアは思い込んでいるけど、そんなことはないはずなんだ」 「そうですね」 「故郷の町で変わり者扱いされてたとはいっても、ひそかに彼女に想《おも》いを寄せている男のひとりやふたりいるかもしれない」 「いるとしても不思議ではございません」 「とすると、彼女に交際を申し込まれた経験がないっていうのは、それを妨害《ぼうがい》している男がいるからじゃないだろうか」 「旦那さまのようにですか?」 「僕が? いっ?」 「そこの公園でリディアさんと知り合ったという男性からのクリスマスカードを、あずかったもののうっかり紛失《ふんしつ》なさいました」 「ああ、あれはいたずらな風が吹き飛ばしたせいで水たまりに落ちてしまっただけで、紛失はしていないよ。文字がすっかりにじんでしまったけどね」 「……さようでございますか」 「とにかくトムキンス、スコットランドにいるそういう不届きな男が、久しぶりに帰ってきたリディアに惚《ほ》れ直したりなんかして、ついに告白する気になる、なんてこともありえない話じゃない」  誰かに言い寄られたりしていないか、宿り木の下へ誘われたりしていないか、それとなく手紙で聞き出せないかとエドガーは考えていたが、どうしたって嫉妬《しっと》と独占欲が見え見えになってしまうからやめたところだ。  トムキンスに話したって問題は解決しないが、つい考えてしまうよからぬことを、ひとりでかかえ込みたくないから吐《は》き出す。 「そしたらリディアは、どう返事するだろう。もしもそいつと交際する気になったりしたら、僕は完全に失恋だ。そのうえレイヴンにも見放されてしまうかもしれない」 「レイヴンですか? どうして彼が旦那さまを見放すのです?」 「仕《つか》えるならリディアがいいと言うんだ」 「それは同感でございます」 「そうだ、だったらおまえとレイヴンでリディアを説得してくれないか。僕と結婚してくれるように」 「旦那さま、このトムキンス一族は代々|伯爵家《はくしゃくけ》にお仕えしつつ、ひとつの家訓を忠実に守ってまいりました。主人の命令をお断りしてはならない、というものです。わたくしにどうしても不可能なことをご命令なさいますなら、お暇《ひま》をいただくしかありません」  笑えないほど深刻な様子で言われてしまう。つまりはリディアの説得が、遂行《すいこう》不可能だということを。 「……冗談だよ、トムキンス」  エドガーはこの提案を撤回《てっかい》するしかなくなった。 「存じております」  にやりと微笑《ほほえ》む執事のほうも、冗談にしてくれたようだ。  明るい金髪に指をうずめつつ、エドガーは脱力して椅子《いす》の背もたれに寄りかかった。  おかしくなって、ひとり笑う。  遠く離れたスコットランドにいるリディアのことを、あれこれ考えたってしかたがない。  もしもエドガーが決定的にふられることになるとしても、自らリディアと距離を置く決意ができない彼にとって、あきらめるきっかけになるというだけだ。  手の届かないところで起こることなら、悪あがきも妨害もしょうがないのだから。 「クリスマスディナーをはじめよう」  エドガーは立ちあがった。  そもそも自分には、リディアをそばに置くだけの覚悟があるのか、それともいっそ彼女の方から愛想《あいそ》を尽《つ》かしてくれればいいと思っているのか、よくわからないのだ。  クリスマスの正餐《ディナー》は昼食から始まる。  そして今日、アシェンバート伯爵|邸《てい》に集まってきたのは、クリスマスといえどひまをもてあましている単身者ばかりだった。  身内がいない者、いても疎遠《そえん》になっている者、あるいは孤独な外国貴族。日ごろエドガーが親しくしている社交界の顔ぶれの中でも、はみ出し者が集まってきている。  上流階級ではないが、エドガーの友人である画家のポールも加わっている。  気心の知れた集まりだけに、食事が始まってしまえば、ディナーというよりは、くだけたホームパーティになりつつあった。  七面鳥にナイフを入れるころには、ワインもずいぶんあけられていて、肉汁とともにやわらかく煮込んだナッツやドライフルーツがこぼれ出すと、いい大人たちが子どものように歓声をあげる。  ローストターキーにはグレービーソースか、それともクランベリーソースか、論争は尽きない。  決まりきったクリスマス料理は、自然と子供のころを思い出させる。  毎年同じクリスマスのテーブルが、永遠に続くと信じていた。 「なあ、エドガー、来年は私の屋敷でやろう」 「いや、アシェンバート伯爵、うちのクックの料理もなかなかだよ」 「きみたち、来年も独身のつもりかい?」 「当然だよ。結婚なんかしてみろ、こんな気ままなパーティは二度とできないぞ。妻の実家で小さくなってるしかないなんてごめんだね」 「実家のない女性と結婚すればよろしいのよ」 「つまりあなたのような?」 「ああレディ、私と結婚したいならそうおっしゃってくだされば」 「わたしは、アシェンバート伯爵にご提案しているの」 「おやおや、ふられましたね。どうします、伯爵?」 「いい考えですが、あなたの息子さんが怖い顔をしてらっしゃいますよ」 「息子? あら、生んだおぼえもないし、わたしより六つも年上」 「義理の息子ですよ、義母上《ははうえ》」  みんなが笑うと、エドガーの隣でポールだけが不思議そうな顔をしていた。  あのふたり、恋人同士なんだよと耳打ちしてやるが、酔っぱらっている頭では考えきれなかったのか、「すばらしい」と言って笑う。  とっておきのクリスマスプディングには、たっぷりリキュールをかけて、火が灯《とも》される。  テーブルに、青い炎に包まれたあまい香りの小山が置かれれば、パーティはますます盛り上がる。  そんな中エドガーは、早めに給仕《きゅうじ》たちを下がらせることにした。  クリスマスは、誰にとってもとくべつな日だ。これから邸宅の片隅《かたすみ》で、召使いたちのパーティがはじまるだろう。 「ところでエドガー、ディナーにきみを招きたがっていた家はいくつもあったのに、どうしてぜんぶ断ったんだ?」  ダイニングルームからサロンへ移動するころには、すでにみんな自分の家にいるようにくつろいで、自由に葉巻をくわえたりしていた。  食べきれないほどの料理も菓子も、これから一晩かけて飲み明かしているうちになくなるだろう。 「年頃の女の子がいる家ばかりだよ。一カ所だけを選ぶなんて、不公平だろ?」 「なるほど、家族がいなくて独身の伯爵となれば、家族になりたがる連中には事欠かないってことか」 「で、伯爵。本命は? 誘われた家のご令嬢《れいじょう》ではないってことで?」 「じつはね、エドガー、みんなで賭けてるんだ。遊び相手と別れて身辺《しんべん》をきれいにしているらしいきみを、本気にさせた女性は誰かって」 「ふうん、それで誰に賭《か》けてるんだい?」 「それを本人に言うわけにはいかない。そうだポール、きみも賭けにくわえてやろう」 「えっ、ぼくはけっこうです……」 「なぜだい? 一ポンドで加われる。もう二十人以上集まってるんだ。ちょっとした稼《かせ》ぎになるだろう?」  本命を知っている上に、彼女との関係が危機に直面していると知っているポールだ。無駄《むだ》な金を賭ける気になれないのも無理はなかった。 「ならポールの代わりに僕が賭けよう。リディア・カールトン嬢《じょう》に」  エドガーは、一ポンド金貨をテーブルに投げ出す。 「誰だ、それ?」 「誰かその令嬢に賭けた奴はいるか?」 「いや、いないね」 「エドガー、その娘が本命なのか?」 「待て、みんな。アシェンバート伯爵《はくしゃく》のことだ、この賭けを引っかき回そうって魂胆《こんたん》だね。きみはいつも、我々を煙《けむ》に巻く」  苦笑《にがわら》いを浮かべ、エドガーは立ちあがった。 「ちょっと失礼するよ。召使いのパーティに顔を出してくる」  もしもこの賭けに勝てるなら、全員に二十ポンドずつ贈ったっていいよなんて、なげやりに考えながら。  簡素な執事の個室も、この日はパーティ会場だ。  料理長《クック》が弾く、調子っぱずれのヴァイオリンが聞こえてくる。歌声や手拍子、軽快なステップが響くダンスは下町ふう。  こちらに気づき、アーミンが近づいてきた。いつになく、彼女も楽しそうだ。 「エドガーさま、こちらの席でダンスを見ていってください」 「ありがとう。ところで、レイヴンがいないようだけど?」 「ええ、やっぱりパーティは気が進まないようで、自室に引っ込んでしまいました」  エドガーのためならどんな仕事でもこなすレイヴンだが、仕事仲間と親睦《しんぼく》を深めようなどとは思わないらしい。 「呼んできましょうか?」 「いや、今日は誰でも、いちばん居心地《いごこち》のいい場所にいるべきだよ」 「そうですね」  アーミンの屈託《くったく》ない笑顔を眺《なが》めながら、また彼女とクリスマスを過ごせるなんて夢にも思わなかったとエドガーは考えていた。  いちどは自ら命を絶《た》った彼女が、心から微笑んでいるわけではないかもしれないけれど、これからは二度と、つらい思いをすることがなければいい。  そのために、エドガーはできるだけのことをしたいと思う。 「アーミン、踊ろう」  彼女の手を取って、フロアの中程へ進む。  アメリカにいたころ、下町でのパーティもいつもこんなふうだった。上流階級でははしたないと思われそうな種類のダンスも、エドガーは親しみを感じる。  アーミンとふたり、庶民《しょみん》のダンスを器用にこなせば、召使いたちに歓声が上がった。  料理長のヴァイオリンがテンポを速める。若いメイドもベテランも、入れかわり立ちかわりステップを踏む。  みんなが踊り始めて、フロアは身動きしづらいほどだが、誰もそんなこと気にしてはいない。  ステップもターンも、ぶつかろうが足を踏もうがお構いなし。  そんなにぎやかな場所から、やがてそっと抜け出したエドガーは、邸宅《ていたく》の大階段をひとり降りていく。  クリスマスにすべきことはぜんぶした。  でもひとつだけ、物足りない。  リディアがそばにいないから。  こればかりはどうしようもない、そう思いながらも外套《がいとう》を手に、玄関のドアを開けた。  すっかり夜になっている。  うっすらと街にただよう霧《きり》はやけに冷たく、ダンスと人いきれに汗ばんだ額《ひたい》を一気に冷やす。  外套の襟元《えりもと》をかき合わせながら、足早に通りへ出て、辻馬車《つじばしゃ》を拾うと、エドガーが向かったのは、ユニバーシティカレッジにほど近い、カールトン宅だった。  リディアもカールトン教授もスコットランドだ。誰もいないのはわかりきっていたが、足を運ばずにはいられなかった。  手前の角で馬車を降りて、通りを少し歩く。  明かりのついていない家は一軒《いっけん》だけだったから、リディアの家はすぐに目につく。  住み込みの家政婦も、休暇《きゅうか》をもらって帰っているのだろう。  リディアの部屋の窓もまっ暗で、ここにまた明かりのともることはあるのだろうかと考えると、胸が苦しくなった。  リディアが去ってしまうことを、こんなにも怖れている。けれど連れ戻しにも行けない。  自分のそばにいないことよりも、自分のせいで彼女が不幸になったり犠牲《ぎせい》になったりするかもしれないことのほうが怖い。  それでも、そばにいてほしいと思う気持ちを捨てきれない。  玄関の石段に近づいていくと、ドアの上にぶら下がっている宿り木のリースが、かすかな風にゆれた。       〈スコットランド・クリスマスリース〉  すっかり日が暮れても、蝋燭《ろうそく》をともしたツリーが明るく部屋を彩《いろど》り、暖炉《だんろ》の火はあたたかく燃えていた。  父とニコと、楽しい食事の時間を過ごしたリディアは、母のお気に入りだったロッキングチェアに腰かけ、父が本を読む声に耳を傾けていた。  料理を存分に平らげて、すっかり酔っぱらったニコは、暖炉の前で寝そべっている。  口を開けたまま、ずいぶんだらしない格好だが、紳士《しんし》を気取っていてもこのちょっと抜けたところがニコらしい。  ときおりヒゲをぴくぴくと動かす。舌なめずりをする。夢の中でまだ何か食べているらしい平和なニコの寝顔に誘われて、リディアも眠気を感じていた。  椅子《いす》のほどよいゆれも心地よくて、そういえば母もよくここで居眠りしていたと思い出す。  リディアは、母のひざの上にいるかのようなおだやかな気持ちになった。  目を閉じれば、心は子供のころに戻る。  母がうたた寝をはじめると、すぐに父が気づいて、そっと毛布を掛けていった。  ときどき母は、わざと居眠りをしたふりをして、父が毛布を掛けてくれるのを待っていた。  物音を立てないように、父が部屋を出ていくと、母はそっと目を開く。  どうして? とリディアは問うた。 『稀少《きしょう》な鉱物より、愛されてるって確かめたいから』  いくら学問バカの鉱物学者でも、石が風邪《かぜ》をひくことを心配して毛布を掛けたりしないだろう。  リディアはそう思って首を傾《かし》げるが、うれしそうに微笑《ほほえ》んでいる母にとって唯一《ゆいいつ》のライバルが父の研究熱らしかった。 『ねえリディア、好きな人ができた?』  驚いて、リディアは母を見あげる。母のひざの上にいるのは幼い自分。なのに母は、大人になったリディアを相手にしているかのように、語りかける。 『あなたに求婚したのは、どんな男性なのかしら。会えなくて残念だけど、あなたが選んだなら父さまと同じようにやさしくて思いやりのある人なんでしょうね』  母が取ったリディアの、まだ幼くて小さな手には、どういうわけか、見慣れたムーンストーンの指輪がおさまっていた。  妖精の魔法で見えなくなっていても、母にはわかってしまうのだと、ぼんやりリディアは考える。 『大丈夫よ。気持ちのままに、彼を信じてついていきなさい』  でも、母さま、あたしは……。  まだ子供よ。恋も結婚もまだまだ先のこと。  もっと、父さまと母さまのそばにいたい。 『ああ、リディア。訪問者よ。きっと彼が、あなたに会いたくて訪ねてきたんだわ』  母に促《うなが》され、その心地《ここち》のいいひざからおりた小さなリディアは、言われるままに玄関へ向かった。  母の言う�彼�が、どんな人なのか、小さなリディアは知らない。だから想像する。  髪の色は? 瞳は? 背は高いのかしら。笑顔はステキかしら。  けれども玄関にたどり着いたとき、リディアはすっかり大きくなっていた。  夢を見ているのだと思いながら、同時に、このドアの向こうに未来の恋人がいるのかもしれないと考えている。  金髪に灰紫《アッシュモーヴ》の瞳の、エドガーの顔が思い浮かぶ。  でも、彼じゃなかったら?  むしろ彼であるはずがないのに、リディアは、ほかにどんな男性も思い浮かべることができない。  ドアは、リディアが手を触れる前にゆっくりと開く。  息をつめてその向こうを見つめていたリディアは、しかしそこに、誰の姿も見つけることができなかった。  ドアの向こうには誰もいなかったのだ。  あたしはずっと、ひとりきりだってことなのかしら。  落胆《らくたん》しながら、暗い外へ出る。風に乗って流れてくる、小さな雪がちらちらと舞う。  不思議と、ムーンストーンの指輪が輝いている。  ふと顔をあげたリディアは、ランタンがともる門柱に人影を見つけ、駆《か》け寄った。  煉瓦《れんが》を積んだ門柱に寄りかかり、目を閉じて座り込んでいる。ランタンの明かりよりも、いっそ明るく感じられる金髪が、鼻筋の通った顔立ちを引き立てる。  どこにいても、何をしていても、隙《すき》なく美しいと思わせる人。 「エドガー! どうしたの? しっかりして!」  体をゆすると、うたた寝していたらしく、彼は驚いたように目をあけた。 「リディア? どうしてここに? ロンドンへ帰ってきてたのか?」 「えっ、ここはスコットランドよ」 「いや、ロンドンのきみの家の前だよ」  あまりにきっぱりと言うので、不審《ふしん》に思いながらも顔をあげたリディアは、石造りの家並みが隙間なく立ち並ぶ通りを目の前にしていた。  リディアのいるところは、たしかにロンドンの自宅の玄関前だ。 「うそっ、だって今あたし、庭を横切って門のところへ……。ねえ、こっちへ来てみて」  立ちあがったエドガーは、リディアが招く方へ一歩踏み出し、目を見開いた。 「ここは……、スコットランド?」 「あたしの家の庭よ」 「じゃあ、向こうに見えるのが、きみの育った家?」  ありふれた二階建ての民家だけれど、あたたかい明かりがともっている。エドガーはそれをもの思うように見つめた。 「これは、夢なのかな」 「ええ、夢よ。あたしが勝手に見てる夢」  エドガーに会いたいなんて、ちらりと思ってしまったから、こんな夢を見ているのだろう。 「違うよ、僕の夢だ。きみの家の前に座り込んでたら、うたた寝してしまったんだ」  灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、ランタンの金色を反射して、いつになく熱を帯びて見える。でもこれも、リディアの想像の中のエドガーにすぎないのかもしれない。  そう思いながらも訊《たず》ねずにはいられなかった。 「どうして、あたしの家の前に……」 「淋《さび》しくなったんだ。きみに会いたくて、どうしようもなくて」  リディアが想像するよりも、ずっとあまい言葉を吐《は》く。本物のエドガーのよう。  顔が熱くなって目をそらしながら、ランタンの明かりから逃《のが》れるように、リディアは植木の影に体を引いた。  けれどそんなふうにすれば、ふたりきりを恥じらう恋人どうしがあかりを避けたかのようだった。  エドガーは急にリディアとの距離をつめ、肩が触れ合うほどに近づいた。 「今夜は誰もが、大切な人と過ごす。にぎやかなパーティは退屈しないし、友人たちもいるけれど、淋しくなった。だって僕が誰よりもいっしょにすごしたかったのは……」 「ねえ、外でうたた寝してるのが本当なら、寒くて凍《こご》えちゃうわ。早く目を覚まして帰るのよ」  せまられそうになったら、つい不安になって退《ひ》いてしまう。  リディアのいつもの癖《くせ》だが、のばしかけた手を止めたエドガーが、ひかえめすぎてかえって戸惑《とまど》う。 「さっさと帰れってこと?」 「し、心配してるのよ」 「夢でも僕になんか会いたくなかった?」 「そんなこと言ってないわ」 「じゃあ、会いたかった?」 「…………」 「ちゃんと言ってくれ。ずっときみがそばにいなくて、臆病《おくびょう》になっているんだから」  臆病なんて言葉がこれほど似合わない人がいるだろうかと思いながらも、今のエドガーは、いつもの一方的な強引さは影をひそめていて、真摯《しんし》にリディアの答えを待っていた。 「……ええ、会いたかったわ……」  だからかリディアも、いつになく素直な気持ちになっていた。  きっと夢の中だから。  現実じゃないから、この瞬間の気持ちだけがすべて。  現実のエドガーが、リディアではない誰かを愛しているとしても、いつも利用されているだけだとしても、今はどうだっていい。 「よかった」  心から安心したように、彼はリディアの髪に触れ、両手で頬《ほお》を包み込んだ。  視線をあげたリディアは、おだやかに微笑《ほほえ》む彼の向こう、門柱のアーチにぶらさがる、宿り木のリースを眺《なが》めた。 「ねえリディア、目を閉じて」  クリスマスの宿り木の下でキスをすると、幸せになれるという。 「でも、あの……」  やっぱり恥ずかしくて、言うとおりにできそうにない。  そんな彼女に、エドガーはささやく。 「僕が見ている夢なら、きみは拒《こば》んだりしないはずだよ」 「あたしの夢なら?」 「もちろんきみの望みどおり」  どんな夢を見ていたいのか、考えているうちにやわらかな唇《くちびる》が頬をかすめ、リディアの唇にたどりついた。  夢の中だからか、はかなくささやかな感覚で、触れあっているというよりは、かすかなあたたかさだけを感じている。  それはたぶん、リディアがまだ、本当の口づけを知らないから。  一瞬だけ、かすかに唇を重ねたことがある、その記憶を頼りに彼を感じ取ろうとすれば、わずかな感覚だけでもどうしていいかわからないほどドキドキしていた。  子供っぽいくらい触れあっているだけなのは、リディアが見ている夢だから、それ以上は想像できないからだろうか。  けれどなかなか離してくれないのは、リディアの思い通りじゃない。  ようやく離れるその間際《まぎわ》、上唇をやわらかく吸われたのも、想像もしなかったこと。  あたしだけの夢じゃない?  エドガーも、同じ夢を見ているの?  彼が取った左手の、ムーンストーンがいつになく光を帯びた。 「もしかして、この指輪の魔法? 聖夜に、僕たちを引き合わせてくれたのは」  そうなのかしら。そうかもしれない。  幸福そうに微笑んで、彼はリディアを見つめる。リディアも、いつになくおだやかに、彼を見つめている。 「ああ、僕はきみに、こんなにも恋している」  もしもそうなら、この瞬間は、彼の言葉を信じたい。  ここにあるのは、お互いを想う純粋な気持ちだけだと。  現実では、他人の心はわからないことだらけ。自分には自信がなくて、傷つくのが怖くて、素直になれないことばかりだ。  これは、目覚めたら消えてしまう、ささやかな魔法。  でも今だけは、あたしは、恋をしてる。      * 「エドガーさま」 [#挿絵(img/mistletoe_257.jpg)入る]  レイヴンの声に、エドガーは、浅い眠りから引き戻されてまぶたを開いた。  ロンドンの、カールトン宅の石段に座り込んでいた彼を、黒髪の少年が心配そうに覗《のぞ》き込んでいた。 「大丈夫ですか? エドガーさま」 「……レイヴン、迎えに来てくれたのか」  厚地の外套《がいとう》を着込んでいるとはいえ、さすがに寒さが身に染《し》みて、立ちあがるのに体がきしむような気さえする。  教会の鐘の音を数えれば、わずかな時間しか経っていないとわかるけれど、ここへ来るしかなかったやるせない気分は消え、不思議と落ち着いていた。 「よくここがわかったね」 「エドガーさま、私は、どなたでもかまいません。あなたが選んだかたにお仕《つか》えします」  急にかしこまってそう言うレイヴンは、リディアの留守宅でもの思うしかなかったエドガーがよほどかわいそうに見えたのだろうか。  同情してくれたらしいと、苦笑《にがわら》いする。  好きだと言いながら、会いにも行けず連れ戻すこともできず、ほかの女性で気を紛《まぎ》らそうとしているエドガーのふがいなさに不機嫌《ふきげん》だったレイヴンだが、もしもリディアが離れてしまっても、あわれな主人を許してくれるということなのだろう。 「夢を、見ていたよ。たぶん、リディアの夢だ。キスしようとしたかもしれない」 「殴《なぐ》られませんでしたか?」 「どうかな。たった今見ていたのに、夢ってのは思い出せないんだから」  ただ、リディアの金緑の瞳を間近に見ていた。殴られはしなかったかもしれないけれど、彼女はなかなか目を閉じてくれなかったような気がする。  エドガーの夢の中まで、リディアはリディアらしかった。  カールトン宅をあとにしながら思う。  レイヴンは、リディアが離れてしまってもあきらめてくれるというけれど、エドガーにとってリディアをあきらめることは、レイヴンよりも、そして自分自身で考えているよりも、ずっと難しいのだろうと。 「ああ、隙《すき》のない女の子も、大好きだ」      *  郵便受けをのぞくと、今日もエドガーからの手紙が来ていた。  休暇《きゅうか》を取ってから毎日のように届く手紙を手に、よく飽きないものねとリディアは思いながら、まだ彼に忘れられてはいないことに、内心ほっとしている。  何気なく門柱のほうを見やれば、日が変わってボクシングデイになった今日もまだ、ぶら下がったままになっているクリスマスの宿り木が目に入った。  それを眺めるリディアの心は、不思議に乱れ、鼓動《こどう》が高鳴る。  どうしてなのか、今はもう、夢の記憶は消え去っているリディアにはわからない。けれどもそれは、おだやかでやさしい気持ちも同時にもたらす。 「やあ、ミス・カールトン」  声のほうに振り向けば、垣根《かきね》の向こうからガイが手を振った。 「あら、こんにちは。昨日はありがとう。おかげでいいクリスマスになったわ」  素直にそう言えると、ガイは意外そうな顔をしながらも微笑《ほほえ》んだ。 「きみさ、恋人がいるんだって?」  アンディに言ったうそが、やっぱり伝わったらしいと思いながら、曖昧《あいまい》に言葉を濁《にご》す。 「派手な金髪の、えらくいい男だから勝ち目はないぞってアンディに言われた」 「えっ、そう……」 「あのツリー、本当はアンディが、きみの家に持っていきたかったものなんだ」  ガイが何を言いだしたのかわからずに、リディアは首を傾《かし》げた。 「毎年あいつ、たのまれた本数より一本多めにモミの木を切ってくるんだそうだ。どうしていつも一本あまるんだって牧師さんが言ってたけど、アンディは、きみの家がツリーの準備をできないでいるって知ってるから気にしてたんだな。でも毎年、あいつはそれを届けることができなかったわけ」 「でも、アンディはあたしとかかわりたくないから、変わり者って言いふらして……」 「そのへん、ひねくれてるんだよな。子どものころきみと友達になる機会を失ったもんだから、他の誰かがきみと仲良くなるのがいやだったんじゃないか? だからさ、俺の態度にも内心むかついてたんだよ。でもってゆうべは、どうしてもひとりで散歩に出かけるとか言いだして、きみにあやまる気になったのかと思ったのに、あきらめたのかすぐ帰ってきた。で、カールトン嬢《じょう》は無理だって俺に釘をさしたわけさ」 「はあ」  リディアの頭に浮かぶアンディは、相変わらず何もかもがつまらないという顔をして、不吉《ふきつ》なものでも見るようにこちらを見る。そういう彼しか想像ができないから、ガイの言うことがいまひとつのみこめないままだ。 「あいつのひねくれた性格、簡単にはなおらないだろうけど、これからはきみと金髪の彼のために、俺みたいなのを蹴散《けち》らすことにしたらしいから、許してやってくれ」  ガイはそれだけ言うと、満足したように行ってしまった。 「あたし、アンディに、エドガーのこと金髪だとかまで言ったかしら……?」  リディアはまた首を傾げながら、冷たい風にショールをかき合わせ、家へ戻ろうときびすを返す。  植え込みの常緑樹の根元から、小妖精たちが外へ出てくる。  昨日リディアが埋《う》めた銀貨とクルミを手に、軽やかな笑い声を立てながら、列になって野原へ向かっていく。  木の葉のざわめきに似た妖精たちの笑い声は、やがて風の音と混じり合い、宿り木のリースをかさかさとゆらす音となってリディアの背中にそっと届いた。 [#改ページ]     あとがき  短編集です。『伯爵と妖精』というタイトルがつく以前の作品も含めて、いろいろ取りそろえました。フルコース、てな感じで並べてみましたので、ご賞味ください。  まずは前菜から。『銀月夜のフェアリーテイル』  シリーズの顔見せ、というつもりの三十枚で、まだ『伯爵と妖精』のイメージが固まりきっていないうちに、えいやっと書いた作品です。  とはいえ、�伯爵《はくしゃく》�の存在だけは漠然《ばくぜん》と考えていたところでした。しかし伯爵を引っぱり出すと、最初の文庫になる第一話の結末が見えてしまう……! というわけでリディアとニコだけです。純粋に、フェアリードクターと妖精たちのおとぎ話にしました。  本編とは少々|雰囲気《ふんいき》が違いますが、楽しんでいただけますように。  しかしこのときは、伯爵のキャラがあんなふうになるとは夢にも思っていませんでしたね。  リディアとニコに関しては、初登場のキャラのまま、以後もコンビとして活躍してもらうことになりましたが、ニコは最初から薄情《はくじょう》で、リディアはすでに不器用なお人好しのようです。  お次はスープ、ケルピー風味(イヤそう……)。『雪水晶のフェアリーテイル』  ここであのケルピーはリディアと知り合ったのでした。ケルピーファンは必読です。  さて、メインディッシュのひとつめは、『恋占いをお望みどおり』 �花売り娘��コヴェントガーデン�とくれば、『マイ・フェア・レディ』とすぐに思いつくかたも多いかと思います。オードリー・ヘップバーンが美しい、私の大好きな映画です。  そんなわけで、舞台はコヴェントガーデンのオペラハウス。もちろん花をからませて。と決めたところで、これを書くにあたって何より苦労したのは、花びらの数の問題でした。  マーガレットの花びらの数は決まっていないから、花占いに向いているというのは聞いたことがありました。  ならマーガレットの花で行こう! でも、本当に花びらの数が決まっていないのかな? いやいや、マーガレットは奇数枚の花びらを持っとか聞いたこともあるし……。あれ? 偶数だったかな?  と、わからなくなったので実際に調べてみることにしました。  はい、花屋さんで買い込んだマーガレットの束を前に、花びらをひとつずつ数えました。  花はぜんぶで百個くらい。結論は、作中にあるとおりです。  奇《く》しくも、アシェンバート伯爵家召使いたちの苦労を体験することになりました(笑)。  ふたつめのメインディッシュは、表題にもなりました『駆け落ちは月夜を待って』  イギリスの(当時の)駆け落ちは、日本でイメージするそれとはちょっと違うんですね。そのへんおもしろいなと思ったので、こんな話になりました。  そういえば、リディアの両親は駆け落ち結婚ということになっておりますが、ふたりともスコットランドの人ですので、ふつうの駆け落ち、といいますか、イングランド人のような苦労はなかったかと思います。  最後になりますデザートは、やっぱりスイートに。『きみにとどく魔法』です。  この短編集のための書き下ろしです。  ちょっと季節はずれですが……、とはいっても、この短編集、いろんな季節のものがまじってますので大丈夫でしょう。  クリスマスの一日を、朝から晩までたどってみました。  やたらあまいらしい、英国風クリスマスプディングのつもりでどうぞ。  というわけで、メニューは以上です。  みなさまには、ご満足いただけましたでしょうか。  短編集ですので、シリーズのお試し編としても読んでいただけるかと思います。気に入っていただけたなら、シリーズ本編の方もぜひどうぞ。  毎回、お忙しい中イラストを引き受けてくださってる高星《たかぼし》麻子《あさこ》さまには、このたびもお世話になりました。雑誌掲載時は、イラストが大きく載《の》るので見ごたえがありましたが、文庫は表紙カラーがあるしと、二度楽しめるのがうれしいですね。  ではみなさま、そろそろページも尽《つ》きてまいりました。  ご縁がありましたなら、また本編の続きでもお会いできるよう祈っております。    二〇〇六年 五月 [#地から1字上げ]谷 瑞恵 [#改ページ]  初出一覧 [#ここから2字下げ] 『銀月夜のフェアリーテイル』……『Cobalt』'03[#「'03」は縦中横]年8月号 『雪水晶のフェアリーテイル』……『Cobalt』'04[#「'04」は縦中横]年2月号 『恋占いをお望みどおり』……『Cobalt』'05[#「'05」は縦中横]年4月号 『駆け落ちは月夜を待って』……『Cobalt』'06[#「'06」は縦中横]年2月号 『きみにとどく魔法』……書き下ろし [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本:「伯爵と妖精 駆け落ちは月夜を待って」コバルト文庫、集英社    2006(平成18)年7月10日第1刷発行 入力: 校正: 2008年4月20日作成